文字書きさんに100のお題[056.踏み切り]

+++[ 碧の海に沈む蒼 ]



 夕さりの丘は、草の海が穏やかに凪いでいた。

 ― ものを考えるなら、此処が良い。
 いつだったか、伊波はそう教えてもらった。何とはなしに、『そっと教えてくれた』、と感じた。そのような気持ちになったのは、眼前のひとがともすれば秘密を打ち明けるように微笑ったからだったのだろうと思う。そのひとは、此処が好きだと言って、深く澄んだ瑠璃色の瞳を和ませた。
 ― 己の生きる土地、其処で起こる物事、それらを須らく見渡せる場所だ。そして、見つめる己自身もまた見えてくる。そのものらの為に自分はどう在りたいのか…。
 『郷が、好きなんですね』
 答えの解っていたことをあえて聞いたのは、きっと、その言いようを聴きたかったからだ。



 晴れ渡る空に、梳いたような雲が細く長く流れていた。それと幾つかのはぐれ雲。
 丘を登るひとりの少年がいる。
 急勾配ではないものの、けして平坦とは言えない道のりを経て、心肺に澄み切った空気を存分に行き渡らせる。森の霊気が肌を通った。
 振り返れば天照郷が一望できた。この瞬間の感覚は気持ちがいいものだと仄かに笑んで、そして少年は更に上、なだらかな平地を目指した。この丘は頂上部がさながら台地のようになっている。土地の者たちからは藍碧台、と呼び習わされていた。空の藍(あおい)、草の碧(みどり)、其れらが天地を鮮やかに分かつ。

 時折り誰かと出逢うことがあるからと期待しながら見渡せば、ひらひらと揺れるものが過ぎった。ひとの手だ。其れを認めて、少年は表情を緩める。
 飛鳥、と呼ぶ声がしてから、足を踏み出した。
 「…九条先輩、こんなところに居たんですね」
 「うん」
 伊波が先輩、と呼ぶたびに気恥ずかしそうに微笑むひとだ。叢に片膝立てで座ったまま、九条は伊波を見上げた。
 「お前も考え事か?」
 「はい」
 頷いて、伊波は伺いを立てた。
 「近く、いいですか」
 「律儀な男だな、お前は」
 良いから遠慮無く座ればいい、と明るい笑顔が返った。

 「此処はいいな。郷全体がすっぽり見渡せるから」
 ― 気分がいい。
 本当に気持ち良さそうに九条は言い、首を反らせ束の間天を仰ぐ。ふっと力を抜いた。短くゆるい吐息とともに、その肩がすとんと落ちる。どこかしら、姿勢の良い犬が伸びをするのに似ていた。
 「以前、言ってましたよね。この郷のことを考えるのには、とても良いところだと」
 「ああ」
 満足そうに声が伸びる。けれどその瞳は少し、寂しそうに瞬いた。
 「また、悩んでますか?」
 「解るか」
 「何となくは」
 「ふむ…。― 言ってみろ」
 では、と伊波は伏し目がちに応えた。
 「自分を責めているように見えます」
 九条は小さく微笑った。口元はそのままで、目だけが苦しそうに眇められる。
 「あまりに力の足りぬ己が、時折りどうしようもなく苛立たしいのだ」

 丘陵を風の波がくだってゆく。葉ずれの音が幾重にもかさなり、遠く、近く、打ち寄せる。― 草原の漣。

 「ひとは、どうして自分で自分を責めてしまうんでしょうね」
 「……」
 何かをいとおしむような目をして、伊波は己が手を見、ゆっくりと握りこんだ。
 「責められるべき時は他人がちゃんと、責めてくれるのに。どうしてわざわざ自分を責めるのか。…自分がもっと痛みを感じるだけなのに」
 「其れはきっと、どうしようもなく愚かな自分を問い詰めねばならない時があるからだ。いつだって他人がやってくれるとは限らない。…俺は、」
 伊波がやおら立ち上がった。両の指を組み、頭上に高く腕を上げる。深く息を吐き、伸びをする彼を九条は見上げた。
 「飛鳥?」
 名を呼んだ。その少し掠れた、あたたかな音階で。
 九条に呼ばれた伊波は、眦に優しさをためこむような、そんな静かな笑い方をする。
 「貴方はひたすら前を視ていたらいい」
 伊波は少し腰を屈め、九条へと手を伸ばす。僅かな音も無く、九条は伊波の手が己の頭に触れ、そっと置かれるのをまずはおとなしく甘んじた。
 「何をする」
 微笑いながら手を遣り、伊波の掌をのけようとするも叶わなかった。というのも、伊波がお構いなしに九条の頭をやや乱暴に撫でたからだった。
 ただ其れは、撫でた、というよりも掻き乱したといったほうが正しいかもしれない。
 「…?!おい、飛鳥!髪を乱すな」
 笑いさざめく九条からは見えないところで、伊波はふわりと微笑う。屈めていた腰を完全に落として、地面に片膝をついた。瞳を閉じて、掌から伝わる温度と手触りだけを感じる。
 「ねえ、総代」
 静かな、しずかな声だった。その声音に九条の動きが鈍り、おとなしくなる。闇の中、気配で伊波は其れを感じ取ることが出来たから、瞼は開けなかった。
 「貴方が何をしようとも、貴方自身が是としたことならば、俺は褒めてやる」
 「…飛鳥」
 「ついていくから。九条宗家の嫡男だとかそんなものでなくて、貴方という人間に、俺はついていく。…貴方の歩む道の先を、視てみたい」
 「………」
 「だから、いつだって俺は貴方を」
 其処で伊波は一旦その口を閉ざした。代わりにその眼を開く。まるで図ったかのようにざあ、っと草海が波立った。厚みのある風に制服の綾紐が鮮やかに舞う。
 「― お前は俺を?」
 「助けるから」
 澱みない誓いを、されど切なる祈りのような願いを伊波は捧げる。
 ― 助けるよ、
 本当のところは、
 ― 俺は貴方を、…貴方の抱く志をこそ、護るから。
 と、伊波は己が胸中にはそう続けた。

 ありがとう、と囁く声がした。
 ― 其れだけで、俺はどれほどに覚悟を深めることが出来たか。…貴方は解っているのだろうか。聡いひとだから、気付いてはいるのだろう。

 ならば、と伊波は想う。
 …ならば是非、貴方の負う業をこの身に降ろしてくれないかと。

 「あらゆるものが俺を罵っても、飛鳥、お前は俺を助けられるか?」
 ぽつりと。重たい響きが草に沈む。小さな花が、揺れた。
 「大丈夫ですよ、其れは俺が罵られるから。貴方はそんな俺を見て、瞬きひとつだけして、歩き出せばいい」
 「そうか」
 「…はい」
 伊波の掌の下、九条の頭が僅かばかりに垂れた。
 「そうか…」
 その右手が額へ触れ、顔を覆った。伊波の手が俯かせていたようなものだから元より彼には良く見えないが、それでも九条はそうした。
 「それでもね、望みを言わせてもらえるなら一つだけ。……出来れば歩き出す時に、俺に微笑いかけてくれれば嬉しいですよ」
 「ああ。そうしよう…」
 掌に篭もり、くぐもった声は、少しだけぎこちなかった。精一杯普通に話そうとしているような、そんな話し方に思えた。
 伊波はふと視線を地面へと落として、九条の左手を見遣る。彼のその長くしなやかな指が草を絡め、刹那、強く握り篭められるのを目にした。大地からちぎり取られた二、三の葉片がはらりと垂れた。
 其れは辛かったからなのか、嬉しかったからなのか。真実は伊波の解るところには無い。いいや、解らずとも良かった。すべてを完璧に知りえることが、常に望ましいわけではないのだから。時には、曖昧な、ふわふわとしたもののまま受け止めれば其れで良い。
 「…ありがとうございます……」
 だから伊波は、心を満たす想いをその一言に篭めた。
 「礼は言うな。俺の言った事とお前の望んだ事は、飛鳥、お前にとって良いことではないのだぞ」
 低く重い、諫めの言が伊波を案じる。
 「いいえ。…とても誉れのある”お役目”ですよ」
 「明日をも知れないひとの生を生きながら、そんなことを言えるか。下手な約束を己に課すと、のちのちが辛くなるだけだぞ」
 伊波が、強い息を短く吐いた。苛立ちを棄てるような、そんな荒い仕草にも九条はさほど動じなかった。黙ったまま、伊波を見据えた。そして伊波もまた、九条の眼から逃げなかった。
 「…。俺は、約束はいらない。ただ今日が在るから、今日の夢を語るだけです。そして明日になれば、昨日の夢を継ぐ。歩く路が其処に在るから」
 「――――。」
 「はい?」
 九条が何事かを呟き。伊波は穏やかに問うたのだけれども。
 「何でも」
 返るのは、ひどく静かな、それでいてやさしい拒絶だ。
 「そうですか」
 「ああ。」
 先ほどの強いぶつかり合いが嘘のように、九条は表情を和らげていた。
 「なあ、飛鳥」
 「何でしょう?」
 今はもう、ただ置かれているだけだった伊波の掌に九条の手が伸びる。手首が掴まれ、伊波は其の手を外された。別に拒否することでもなかったから、されるがままに、手を引いた。
 九条の顔が上がる。
 『飛鳥、お前は本当にひとが良すぎるよ』
 ― …笑った。
 ずるいな、吸い込まれそうな笑いかたをするひとだと、伊波はふっと意識を赦す。
 その一瞬の間だった。掴まれていた手首が強く引かれる。
 「っわ…?!」
 これでも武術を叩き込まれた身体だ、これしきのことでそう簡単に転ばないよう神経は働く。
 だのに、ひどく容易く伊波の躰は崩された。堪らず、両の膝が地に付く。
 膝を折らされる。
 「…なんだ、これほど簡単に行くとはこっちが驚きだな」
 忍び笑いがすぐ耳元で聞こえた。
 「俺もですよ…」
 何とも形容し難い感情が綯い交ぜになり、血の管にのる。身の内がざわめいた。
 堪らず、息を吐いた。
 心が従う、ゆえに躰はすんなりと膝をつく。きっとそういうことなのだと、伊波は思った。もはやこの身を隅々まで支配する、このひどく誇らしいものへ静かに頭を垂れた。
 「何で急にこんなことを?」
 顔を上げ、それでも伊波は口調だけは軽く責めるように訊いた。目にまるで怒りが入ってないな、と九条は微笑った。
 「ん、そうだな…なに、お前がどこまで俺を赦してくれるかとな」
 まあ、まるで役に立たない程度の試験だ。言って、苦笑する九条を伊波は静かに見つめた。口を開く。
 「― 踏切を渡ってしまったら、戻れないというのに。」
 「…!」
 九条は瞠目し、息を呑んだ。
 「そう、言ったでしょう?さっき」
 「……聞こえて、いたのか。タチの悪い…何故繰り返す?」
 「あのね、先輩。貴方の云う踏切はね、俺が今此処で渡らないと、いけなかった。此処で今。― 渡らなければ、絶たれてしまう路が在ったんですよ」
 「…其れで良かったのか、飛鳥。渡れて良かったとお前は言うが、本当に其れで」
 「良かった。渡れなければ俺は、こじ開けましたね、踏切」
 九条の眼が更に驚きに見開かれる。瞳は綺麗な円を描いていた。
 「ふふっ、…あはは!」
 ややあって、朗らかな笑い声を上げた。



 ひとしきり笑ったあと、九条は伊波に線の整った横顔を見せた。かの者の瞳は丘を降り、其の先にひろがる郷を見ていた。
 「俺はな、飛鳥。この郷が、…好きだよ」
 「知っていますよ」
 「そのために動く俺を助けてくれるお前のことも、好きだからな」
 さらさらと草がそよぐ。言霊が、遠く鈴を鳴らす。
 「…」
 伊波は、おそらくは咄嗟に何か言おうとしたのだ。
 けれど彼の唇は其の通りには動かなかった。薄く開かれたものの、音は紡がれぬまま静まる。
 代わりに、鳶色の瞳が瞬いた。

 伊波の視界に映る、紺青が揺れた。九条綾人が躰を伊波のほうへと向けたのだ。身じろぎにあわせて、不思議と青みを思わせるその髪がやわらかく靡いた。
 「俺も。九条先輩のこと、大好きですよ」
 ゆるく笑む。
 「そうか」
 「ええ。其れはもう。だから、ついていくんですよ」
 屈託無く笑いあった。


 このとき交わした『好きだ』という想いは、きっと言葉以上の意味は無く、そして其れ以外の意味も無く、淡く丘の風に溶ける。

 ― 言うならば、ただひどく倖せだった。

 


+++終。 

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守りたい、より”見守りたい”ひと、というかな。伊波にとって総代は、きっとそういうひとなのです。


えと。(ぽりぽり)何ですかこのひとたちは。将来を誓い合ってるようにしか見えませんけどー!(笑)友情と敬愛、で書いているつもりなのに、そんなもの軽く越えてはいませんか…。(書いてんのはわたしだ)
『好きだと思ったら、もうダメなのよ』そう、そんな感じ!<やけっぱち

う、うう、なんだかなあ、ウチのふたりは。見ててすごく羨ましいよぅ。(は?)

はてさて、うちの伊波は二人っきりの時は総代を『九条先輩』呼ばわりとします。決定事項。理由は至って簡単、萌えワードだからですっ。でも『総代』も同じく萌えワードなので臨機応変で使い分けてゆきますよー。えへへ。


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