+++[ 雪割りの花 ]



 「九条先輩」
 何の脈絡も、無かった。ただ、そう呼んでみたかった。


 放課後の執行部室。このひとは何枚ものプリントを捌いていて、入ったその足で退席しようとしたら話し相手にならんかと誘われた。”お邪魔でないなら喜んで”、微笑うそのひとに勧められるままに椅子を借り、ふいに口をついて出た言葉だった。

 さてどう出るだろうかと、少し浮ついた気持ちで待つこと数秒に満たない。
 僅かな戸惑いに深く澄んだ瑠璃色の瞳は瞬いて、そうして柔らかく撓んだ。紙を弄んでいた手が止まり、肘を突いて顎の支えとなる。
 「いきなりだ」
 「はい」
 ひどく愉しげに上がるこのひとの笑い方は屈託無くて、心地いい。
 「今はほら、執行部の代表だから総代って呼ばれてますけど。先輩、って言わ
れた事あります?あまり、そう呼ばれているところ見たことなかったから」
 問えば、髪を掻き上げるおなじみの仕草が見られた。視線が上を向き斜めへ泳ぎ、そうして下へ落ちた。瞼が閉じられ、それでも明白な記憶に辿り付けなかったのか。短く息を吐いて、回想は苦笑に閉じられた。
 「うーん……あったような、無かったような、というところか。…郷のものでなくとも九条さん、だったかな。あとは概ね宗家呼ばわりだ」
 きっと其れは、九条という名の持つ威厳のようなものが強くて、先輩というのもまた軽々しいと暗に避けられていたようだと。惜しい学生生活だな、とまた微笑い。やわらかなクセがついた髪が、その仕草につられて揺れた。
 「惜しまれるものがあるのなら、何度だって呼んであげますよ。…”九条先輩”の許可が下りるなら」
 落とされていた視線がつとあがり、此方を見た。やはり、微笑っていた。
 「九条先輩、か」
 己の舌で転がし、自己確認だろう、軽く顎で頷く。見ている此方が面映くなるから、もったいぶられるのは御免だなと、そう思いながら、けれどこの間は悪くなかった。
 ややあって、今度は此方を見ながら深く頷くひとだ。
 「そうだな、其れもいい。…ああ、だが皆の前では控えてくれないか?」
 「どうしてですか?」
 「…いや何、みっともなく照れてしまうと示しがつかん」
 「照れるんですか?天下の九条綾人も」
 「ああ」
 今もな、と笑まれれば、その紺青に惹き込まれてしまうのを彼自身は解っていてやっているのだろうか。だとしたら、このひとは曲者だと無意識が警鐘を鳴らす。…ひどく愉しげに鳴る鐘の音は、まるで他愛の無い恋にも似て甘やかだった。
 「……其れは、良いなあ」
 「良くあるものか」
 くすりと零れた笑みはすぐに止み、楽の余韻を残した面立ちが困ったように此方をねめつける。
 「とても良いですよ。だからね、俺は皆の前では総代って呼ぼうと決めました」
 「ほう?」
 「つまりは、”そういうこと”ですから」
 飲み込みの早いこのひとのこと、ああ、と一瞬だけで理解を示す。
 「お前も大概、クセのある奴だな」
 本当に素直でない。やれやれと呟く声音はやさしい溜息を孕む。
 「先輩ほどじゃないですけどね」
 「良く言う」
 また朗らかに笑い声が上がった。

 「九条先輩」
 「ん…」
 僅かに小首を傾げ、相手の出方を静かに受ける姿勢を好きだな、と思う。動と静のバランスが良いから、このひとの表情や仕草の変化を追ってしまうのだ。
 「いーえ、呼んでみただけです」
 「だと思ったよ」
 ぱら、とプリントの束を捲る音に重なり、溜息まじりの明るい声。
 「先輩はこんなことでは怒らないと思うので。ちょっと楽しんでみました」
 「其れは其れは。俺も買い被られたものだな」
 「はい?」
 かたん、と椅子が床を擦った。鹿が首をもたげる仕草にも似た、ゆるく優美な背の伸ばし方をして、このひとは机から躰を離す。
 一歩二歩と進められる足捌きは騒がしくないのに、ふるい床が軋む音は何か遠い幻想を思わせた。…なものだから、もしかしたら酔ってしまっていたのかも、しれない。
 ― …このひとは何を思って突然立ったのだろう。
 おぼろげに考えながら、その動きを瞳に追う。
 はっと気付いた時には遅かった。
 額に伸びてくるかのひとの手。ひやりと感覚が冷え込んだのは、ひどく綺麗な型が得物の鋭い切っ先に被ったからだろうか。
 ちいさく、己が喉の鳴る音を聞いた。
 一つ頭抜きん出ていた中指が触れた刹那、この額がチリ、と微かな熱を倦んだのを確かめる間も無く。
 とん、と小突かれた。何とも言い難い不可思議な浮遊感がその一点から身のうちへと拡がってゆく。
 「せんぱ…い?」
 かろうじて捻りだした声音の掠れ具合が、自分でも可笑しく、けれど笑うにはあまりにも驚きすぎた。だから、眩暈のするままに眼前のそのひとを見上げる。

 ただひたすらにうつくしく立つひとは、空気に溶けゆくような笑顔をしていた。


 まだまだ甘い。そう静かに微笑って、先ほどひとの額を穿ったその指で、その手で、子供を甘やかすように頭を叩かれて漸く。
 「大人げ無いひとだな……」
 其れはもう、大きく深く溜息をついたのだった。

 頭上でまたひとたび、笑い声がした。


 本当のところは参ったなと素直に思っていたのだけれど。其れを口にするのは口惜しく、言えばきっとこのひとはつけあがるのだと、解るから。
 いつか、このひとを負かしてやろうと決めた。そして其の時『参った』と言われたら、今日の日のことを白状するのだ。

 其れはとても楽しい企みで、知らず口元から笑みを零してしまい。観察眼の鋭い九条綾人の追求の一手を受けることとなるが、ひとつ鮮やかな笑みを残して脱兎の如く部室から逃げる。
 逃げた、つもりだったのだ。
 「…あの、九条先輩?」
 「ん、なんだ?」
 「どうして俺の首根っこがこんな簡単に掴まれているのか聞いて良いですか…」
 其れはあれだな、楽しそうな囁きが耳元に忍び寄る。
 「鼎さん風に言うなら、九条綾人此処にアリ!といったところだ。後輩にそう易々と逃げられるほどぬるい腕は持ってないんでな」
 軽く握った拳に小突かれ、少しばかり骨に響く音がやけにくすぐったかった。
 「其れはちょっと…ずるい……、手加減ないなぁ………」
 「はっはっは。さあ、参ったと言って、腹でとぐろを巻いている妙な考えを白状してみろ」
 「断固として拒否します」
 言って。ふ、と堪りかねたように吹くのを聞き、しまったと歯噛みしたのはもう遅い。
 「ははあ…やっぱり良からぬことを企んでいたようだな」
 「…あーッ……」
 やるせなさに、眉間に皺が寄るほどきつく瞼を閉じた。
 心中に敵わないな、と思い。深くふかく息を吐く。口惜しいから、喉を軽く締めているこのひとの腕に項垂れてやる。
 「観念したか?」
 「まさか。迷惑をかけてあげようと思った次第ですけど?」
 人間の頭って重いでしょう?言いながら上目に見遣れば、こいつ、と顔が顰められるのが見えた。ほんの少しの優越感をありがとうございます、などと口は出せぬことを思う。
 「…まったく。こら!いい加減にしろよっ」
 しょうがないなと。何の重みも感じさせない、ただひとをあやすためだけのお叱りを繰り返して。
 ― ああ、また貴方は微笑ってくれるんだ。
 「いつか、教えますから。今日のところは勘弁してください」
 「まあ良いだろう。だが、これだけは覚えておけよ?俺に痛い目を見させようなんて土台無理な話なんだからな」
 「嫌だな、九条先輩ってそんなに自信過剰でしたっけ」
 間髪入れず、こつん、と頭蓋に音が響いた。先程より少しばかり強めだ。
 「ッつぅ…」
 思わず口から、痛みが漏れる。
 「いッた…ちょっと力入ってましたけど」
 「知らんな」
 するりほどけた腕を惜しんで、そのまま視線の流れるままにかのひとの面立ちを見上げた。
 綺麗な瑠璃色の瞳が細まって、笑もうとする瞬間に立ち会う。
 「楽しみにしていよう」
 半歩足を退きつつ、ゆるやかに躰の向きを変える動きは芸事のように無駄なくうつくしい導線を描く。
 「はい」
 うん。返る、朗らかな頷きに何とも言い難い感情が呼び起こされる。言葉にするにはまだ曖昧なものは、このひとと共に歩いていけば解るものなのだろうと、そう思った。


 ―― あの時は、そう思っていた。解る日が、来るのだと。





 巡る四季、再び訪れた春。


 惜しまれるものがある。
 けれど其れは、夏の雪のように。…望んでも与えられないものだ。
 ひとの子の手ではけして起こせない奇跡。
 夢に紡ぐだけの御伽話に似た、神の指先にのみ垂れる雫。

 それほどまでに惜しむものは、きっとこれから先を生きてゆく途上に見つけられないだろうなと、彼は静かに其れ以外の愛惜を断ち切った。
 であるなら、生涯の唯一の望みとして残るものは『其れ』だけだ。
 叶うならばもう一度、巡り会いたいのだと。

 ― 貴方のために歩む道が欲しかった
 半ばにして途切れてしまったその道を、もう一度歩かせてはもらえまいか。

 蒼穹の丘で、風に千切れて大地から放たれた草が舞う。

 ただ一つのものを持って旅を。
 古の樹海の彼方、己が産土の地へ背を向ける。


 もしもまたこの郷を滅びが襲う日が来るというのなら、其れは自分が命潰えた刻だと彼は言い。
 その真意は、この地を脅かす魔を討ち払う鎮守人としてだけのものでないことを、いま彼の目前に立つ者は知っている。かのひとの志、郷への想い、其れらがこの青年に決意をさせたのだから。

 彼はわかるかわからぬか程度に静かに微笑って、見送る者の額に口づけた。
 「元気で」

 囁きは丘の風に溶け、桜の花弁と共に郷へ降る。

 


+++終。 

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 くどくどと語ることなく、ただ、ふと純粋に「ああ、このひと大好きだなあ」と思って、そのひとのために何かしてあげたいとひたむきに願うコトって人間誰しもあると、思うのです。其れは友人であったり恋人であったり様々なれど、好きだなあと想うそのひとを慕って、物事を考え行動する。
 そして時に、好きなひとのたった一言でひとは、人生の選択肢のみならず生き方すらも決まることがあるのだと。


 「…それを恋というんですよ伊波君(遠い目)」ああっ、石見教官そうだったんですか?!驚愕の事実に独り慄いてみる伊波君です。…なんでしょうか、この総代【愛】っぷりは。(笑)

 伊波は総代を捜すために郷を出たんだぜきっとED。(謎)見送ったのは男でも女でも、どなたぞお好きなキャラで想定してください。あはは。


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