文字書きさんに100のお題[033.白鷺]

+++「白鷺の雛」



 死の匂い。いのちの事切れる際より漂い、骸にまとわるもの。
 ひとも、本性がけものである以上はその匂いを嗅ぎ取ってしまうものだ。


 ― 逝かないで。
 ひとりの娘が、心にその匂いを嗅いだ。いのちの喪失を感じ取ってしまった躰は強張り、そして芯から染み出る細かな震えに支配される。ひとすじの透明な涙が頬を伝い、堰を切って溢れ出す雫は長い睫に弾けて零れ落ちた。爪先から這い登る畏れが、生気のもがれた躰を支配してゆく。
 この世から離れゆく魂に縋りつき請うた祈りは、何に召されることも無く宙に溶けた。

 「か…あさま」
 漸く、搾り出した声。
 どれだけの時間泣き腫らしただろう。声の出し方を忘れていた喉は、空気が通ると攣れてひどく痛んだ。
 母さま、かあさまと嗚咽まじりに呼びかけ、その衣服を握り締めて揺れ動かしても、もはや返事は返ってこない。
 数週間ほど前から躰を壊し床に臥していた母。村の薬師に調合してもらった薬を与え続けても病状は悪くなるばかり、ついに回復することなく逝った。
 キサラの母は託宣を受ける巫女として村に在った。
 稀有な力を持つ母は、いつも村の者たちから腫れ物を触るような扱いを受けていた。勿論その娘だったキサラへの対応もあたたかなものでなどなかった。死病の床についてからも、村の人間は誰一人として見舞いに来はしない。ひとにも神にも見放された巫女の末路は、唯一の血縁たる娘だけが惜しむものだった。
 娘の名をひとこと最後に呟いて、母なる女はそれっきり口を閉ざして帰らぬひととなる。見取る年頃の娘がいるとは思えないほど、面立ちのうつくしい女を村の男たちの影が取り囲んだ。頭上を覆う、黒い影の群れにキサラの身が竦む。
 そう長くは無いだろうと其処此処で噂されていた女の骸を、さっそく検分に来たのだ。
 死の匂いを嗅いで集る、さながら死肉喰らいの鳥の群れ。
 その嘴が、羽音が、遺骸を取り囲む。恐怖に身が凍った。
 「諦めろ、娘。どうもお前の母は流行り病をもらってきおったらしいな。…離れろ、すぐ焼き払わねば皆が死ぬ」
 「いや…かあさま、かあさまぁッ!!」

 母さまに触れないで。母さまに、さわらないで。病に倒れたわけじゃないの、お願い焼かないで。もう少しいっしょに居させて。

 男たちに引き剥がされ、もがく娘は泣いて叫び、母に似てうつくしい顔を涙に濡らして請うた。流行り病だなどと何故いまさら。
 「おまえたち、暫し待て。― …キサラ」
 ふいに背後から届けられた年老いたしわがれの声に、村の男たちは動きを止め。
 キサラと呼ばれた娘は、しゃくりあげる口元を必死にひきむすんで声の主をみた。
 「キサラ。母の死んだ理由は流行り病。…そうするより他無い」
 「どうして…?ねえ、どうしてですか長」
 「どうしてもだ」
 老人は村の長の風格でキサラを睨み。忌々しげに鼻を鳴らした。
 「竜に魂を喰われおっただけであればまだ良かったがな」
 「…………長、なにを、仰っておられるのです…?」
 「どうもこうも。要領を得ん神託ばかりを口にするから、問い詰めたら、この女!竜を降ろしてしもうたと抜かした。異界に棲む異形をな!!」
 驚きに、キサラは口を閉じることを忘れた。世界の伝承にうたわれる、異界の獣たち。契約を結ぶことが出来れば、宿主の命を代価に強大な力をもたらすという。そんなものを母が身に宿していたのをキサラは知らなかった。そう、此方の世界に彼らを呼び出しさえしなければ普通は気付かれないだろう。けれど長は知ってしまった。何故ならば竜に棲みかを与えてしまったら、巫女として神の言葉を受けるだけの能力は萎えてしまうに決まっているから。
 だからキサラの母は、秘密を長に気付かれてしまったのだ。
 あの王朝に目をつけられてはいかんのだと長は口を歪ませる。白い肌に金の髪、蒼い瞳をもつキサラたちとは違い、浅黒い肌に黒髪と黒耀の瞳をもつ民族は砂漠に広大な国家を築いていた。自分たちとは違う他民族を奴隷として狩る彼らの襲撃は砂嵐以上に恐ろしいものだった。捕まれば永劫の苦しみに喘ぐ苦役に組み伏せられ、命尽きるまで外れない枷を嵌められる。
 そして、その王朝に携わる者は異界の獣を捜し求め、自在に扱えることでも名が知れていた。
 「良いかキサラ。この村に、竜を宿す女はおらんのだ。居てはならぬ。風の噂にのぼれば珍しきものよとこの村だけではない、近隣一帯すべてが狩られるぞ」
 「……長」
 つぶらな瞳が今は驚愕にただただ大きく見開かれ。
 かたかたと細かく震える手が取り落とした水差しが、ぱりん、と破片を土に撒いた。末期の水を所望した母が口にした、最後の飲み物の残り。じわじわと床に染み込み、黒く拡がる斑点。
 母のことは金輪際忘れろと、そう長は言外に言い含めた。…その意味を知り。
 厳つい雰囲気をはりつけた背中を向け、無言で立ち去りかけた村の長を、キサラはその瞳に虚ろに流し込んでいた。そうして溜まる、黒い感情。その心を具現化して、留まることを知らない床の染み。膨らむ憎悪は、もはや理性の箍を外しかけていた。ふつふつと湧き上がる負の感情は渦のように轟音を立て始め、胸が焼け付くように熱い。
 「……まって、ください」
 「なにか」
 振り向かずに声だけが返る。
 「母さまの、かあさまの命を奪ったのは」
 歯の根が合わない。わななく唇が辛うじて動くのは、真実を知らなければいけないという己の内なる声がさせることだった。
 「母様、が、死んだのは…ッ…」
 「おとなしく神託のみを受けておれば良かったものを、竜なぞ宿すから悪いのだ。そこを、首を刎ねず、苦しまぬように逝かせてやっただけ感謝されたいものだな」
 首をまげ、顔だけが此方を向く。その眼光は、くろく濁っていた。窪んだ眼窩の奥に、澱んだ思念が凝り固まって成ったかのような目。
 「…ッ!!!!」
 躰のなかに、熱いものが逆巻いた。
 詰る言葉よりももっと強い、なにかを欲し。
 血の奔流のむこうに、キサラは喚んだ。
 応えてくれるものなどないのに。悔しくて歯を食いしばったキサラの視界を、白い影が掠めた。
 ― 我を呼ぶか。
 ふいに眩む眼前。眩暈を抜けたときには、何処とも知れぬ無音の中に立ち竦んでいた。
 足元の濡れた感触と、肌で感じるひんやりとした空気に、ああきっと此処は夢の洞窟だと、麻痺した心が惑って起こしたおぼろげな感覚に理由をつけた。
 一滴の水が滴り反響する。ひろがる共鳴音に導かれるようにキサラは躰の向きを変え、目を瞠った。
 隔絶された昏い意識の奥深くで、白い影が蹲っていた。まるで巨大な獣のような輪郭。
 絶句し、瞬くことも忘れたキサラの目の前で、其れは身じろいだ。
 やおら首をもたげる、白い影。

 吼えるでもなくただ其れだけの行動だったけれども、感じる言い様の無い畏怖に、肌が粟立つ。圧倒的なまでの存在感。なのに、不思議と逃げようとは思わなかった。
 いや寧ろ。…惹きつけられて動けなかったのだ。
 白い影は、長い首を持っていた。まるでキサラの心を窺うように撓らせる。
 娘、と音を持たない静謐な声が洞窟を浸した。

 ― 我を呼ぶか、娘。汝の命を、我になじませるか。その身を宿と我に差し出すか。
 ― 竜を宿せし女の血、汝のなかに確かに認めたり。呼ぶか、我を。
 ― 我を呼ぶか、娘。

 「……はい」

 差し招かれるままに、頷いた。この影は、欲したものをキサラに与えてくれると言ったのだ。

 ― 良かろう。

 それまでは静かだった声に、揺ぎ無い力強さが加わった。

 白い影から一対の翼が伸び、青白い燐光が影を包むように膨らんだ。露わになる、影の輪郭。
 真円の蒼い双眸、くねる躰を飾るのは白銀の鱗。鈍色に耀くふとい鉤爪が、一歩前へ。優美な線を描く巨躯は、すべてを気圧すほどの勇壮な覇気を放つ。

 聳え立つ青眼の白竜。完全な姿をあらわした異界に棲む獣は、ぐっとその鼻面をキサラへ寄せる。きらきらと星の瞬く蒼い目が美しかった。

 ― 契約は交わされた。今この時をもって、汝は我の宿主なり。

 ― 娘。命の代価に与えるのは、我の力。使うが良い、竜の力を。

 言霊と共に竜は掻き消え、刹那キサラは身の内に巣食った重たい力にたたらを踏んだ。
 どくりと波打つ血流。躰の芯が熱く唸りを上げる。
 喉を焦がす、呪詛の詩。
 迷いはなかった。
 母は、たったひとりの愛しいひとだったから。其れを奪った者すべてが、憎かった。
 涙を呑みこんで、キサラは竜に命を下す。

 ―― すべてを滅ぼしてと。



 突如として、嘶く竜の咆哮が空に轟き、乾いた空気を逆巻く風が震わせた。
 叩き付けるような強烈な風、けれどその中心部はひどくおだやかで。キサラの踝まで届こうかという長い金の髪をゆるくたなびかせた。
 幻想に包まれる少女の足元を丸く切り取った深い深淵から躍り出る、鈍く耀く白銀の鱗。その天を覆わんばかりの強大な両翼は羽ばたくたびに突風を起こし、荒く凄む鼻息は砂を巻き上げる。
 爛々と光る底知れぬ蒼い目は、人間を畏怖と畏敬に萎縮させた。
 「き、キサラ…おまえ、母から竜を継いだのかァッッ!!!」
 殆ど絶叫に近い詰問。
 竜を継いだのかと。
 正確にいえば、違う。けれど、そうではないのかといわれれば其れも違う。
 茫洋とした眼差しを向けるばかりでキサラは答えなかった。
 「なんと…竜を宿すは一個の人間ではない……その血筋に辿るものか……?そうなのか、答えよキサラ!」
 答えたくなかった。言葉を交すなど、もうたくさんだと。
 首をすりよせてきた竜をそっとやさしく撫で、ひとこと、誰にともなくごめんなさいと彼女はつぶやいた。

 まだ自分が幼かった頃、母はたしか言っていた。
 あなたは竜を呼んではいけないと。
 命を削られてしまうからと。
 …きっとあの時、母は必死に抗っていたのだろう。

 でも、とキサラは俯く。うつむいて、再度。ごめんなさいと嗚咽まじりに母を想った。

 母がそうであったように、自分も竜に魅入られてしまった。
 ああけれど、キサラの罪は重いだろう。
 滅びをもたらす力を手にすることをこそ望んでしまったのだから。

 骨が叩き折られ、血が飛沫を飛び散らす生々しい音と、おぞましい断末魔の叫びが砂漠の砂に呑まれていった。
 キサラの知る、ちいさな世界の終焉。
 最後に耳が聞いた悲鳴は、耐え切れず叫んだ自分のもの。
 噎せ返るほどの壮絶な血の匂いに、意識が遠のいた。
 砂の音が掠れていく。



*
 渇きに罅割れた唇を砂塵がこする。
 キサラが途切れた意識を取り戻した時、己の躰は半ば砂に埋もれ、だるく首を起こせば一帯が砂丘だった。何も知らない者が見れば、砂に喰われて消えてしまった村の有り様に他ならない。だがキサラは知っている。これが、己の引き起こした惨劇の結果だということを。体内に僅かに残る水分が絞りだされて涙になった。しかし其れも、焼け付く太陽の陽射しにあっけなく渇く。
 力の全く入らない躰は声も無く突っ伏し、キサラは自分が砂に沈みゆく音だけを聞いていた。もう、この周辺に生けるものは無いだろうと思ったら惜しまれる命などでは無かった。
 防ぐものは何も無く、肌を焦がす陽光にも無頓着だったキサラの耳に、数人の人間がわだかまる気配が届く。
 『…確かここらに村が無かったか?』
 ち、っと舌打ちをする音だけは解った。言葉は風の音にざらついて良く解らない。いや、これは異国の言葉だと遅れた思考がややあって理解した。
 ああ、人狩りの。熱に蕩けてまるで使い物にならない頭の片隅、そう察しても躰は言うことを聞かず指先すらもろくに動かない。
 『狩りに来たら肝心の村が無いとは運の無い…砂嵐にでもやられたな、これは。木っ端が散らばっている』
 『どうする、掘り返すわけにもいかんだろう。ばらけた死体なんぞ持って帰っても金にならん』
 『人が居なければ何かしら財を探すしかないな』
 『面倒な…』
 …言葉は解らなくとも、苛立っているのだけはうっすらと感じた。
 危険だと本能が示唆するのに、近付く足音から逃れるだけの体力が無い。喉がひゅぅと掠れた音をたてるばかりで、もう指の一本も動かなかった。村をひとつ薙ぎ払ってしまうだけの分を竜に献じてしまったこの身に補給される栄養が無い今、キサラは己の死を贖うことのみを薄れた意識の片隅におもう。
 だが、そのまま静かに項垂れていれば穏やかに天に召されたかもしれなかったのに、ふいに喉に流れ込んだ流砂に咳き込んでしまった。

 すぐさま、ざくりと耳元で砂が鳴った。
 じりじりと照りつける太陽を背にした人間の影が、霞む視界を黒く覆う。
 『おい!来てみろ!!わかい生娘だ』
 野太い声と、舌が唇をなめずる粘つく雑音。次いで、耳障りな砂音が幾つもいくつもキサラに集う。
 『でかしたじゃないか、上物だ』
 『白い肌に青い目、確かに此処らの女だ。年も手頃』
 『他にいやしねぇのか?』
 『なんならテメェが勝手に探せよ、この娘の見目なら数人分の稼ぎにはならぁ』
 『こないだの村で多めに狩っといて良かったな、奴らを売りさばけば此処で足らんかった分の埋め合わせにはなる。とっとと都に帰るぞ』
 『なんだ、帰るのか?もうひとつくらい村を襲わないと辺境くんだりまで来たってのに割があわんだろう』
 『莫迦を抜かせ。此処で村が襲えなかった以上、おれたちに余分な水や食料は無いんだ。もう先には進めん』
 『そういうことだ。…はやくその娘を荷台に詰め込んでおけ』
 ぐらりと世界が傾いだ。躰を覆っていた砂が零れ落ちる感触が肌を這う。遠慮無しに担がれ、硬い戸板に投げ捨てるように放られた。
 幾つもの呻く声が鼓膜に軋み、肉が膿んで化膿した悪臭が鼻を突いた。何処かの村でこの男たちに狩られた人間の怨嗟に触れ、キサラは堪らず目をきつく瞑る。
 心の何処かで、これは罰なのだと冷たい声がした。
 其の通りだと思う。思うけれど。キサラは泣いた。涸れた涙のかわりに喉を引き攣らせて。



*
 風に砂がほのかに入り混じり、暗い建物の中に群れる人間の足元をざらつかせた。
 誰も何も喋らない。ただただじっとうずくまる彼らは、時折、その冷えた瞳を熱気にうだる格子の外へと向けるだけだ。
 格子。鉄拵えの其れは重く痛ましい牢獄の蓋だ。

 そして此処は奴隷として連れて来られた異国の人間が放り込まれていたから。
 よしんば出られたとて待つ未来がけして明るくないことを皆知っている。
 だから。
 項垂れ群れるこの者たちは、その白い肌から生気を喪い、虚ろな眼差しで石床を見る。

 唯一、感情が瞳を揺らすのは、彼ら虜囚を売り買いする奴隷商人の足音が牢の前に止まった時。憎しみと絶望と、…かなしみ。

 「……若い娘をご所望だと仰られていましたかな」
 媚を売る、その下卑た声音に牢内の女たちが微かに身を竦ませた。ある者は自分を、またある者は我が娘を、選ばないでくれと。
 そして彼女らはそっと、牢のひと隅を一様に見遣るのだ。
 群れから少し離れて、金の髪をうすくひろげ力なく伏せるひとりの娘を。
 この中で、誰一人として血縁のものがいない人間。
 「おお。見目良ければ高値で買ってやろう。手頃なのは居るか」
 商人に顔色を窺われているのは年の頃は壮年の、身なりが派手な男の客だった。
 脂の乗った浅黒い頬に金回りの良さがちらつく。
 「そうですかそうですか、まっこと運がよろしい!おりますよ、うつくしい娘が」
 娼館で働かせるにはもってこいな、と小さな声でこそりと続ける商人はにやにやと笑い。
 客の男もまた同じくにやついた笑みを浮かばせた。
 「なにしろ今その娘は体力が萎えておりましてな。連れ出すのに駄々もこねませんぞ」
 「直ぐに死にはせんだろうな?」
 「まあそこはそれ、匙加減一つでどうとでも…」
 くつくつと笑う奴隷商人は、懐から出した鍵で錠前をあけると、手下の男たちを牢内へ入れる。あの娘を連れてこいと杓った顎の先、― 居たのはキサラだ。身を起こすのさえも億劫でならず、牢内の人間の眼差しが一斉に向けられてもまだ自分に迫る運命を察せられなかった。荒い足音が無数に取り囲み、首根を抑えられた痛みで漸く声を上げた娘の顔を商人は客に見せる。客は満足げに髭をしごいた。
 「連れて行け」
 その含みある仕草に、喜々として商人は手下に指令を飛ばす。
 満足に立てないのを引き摺るものだからキサラのやわらかな肌は冷たい床に擦れ、幾筋も紅い線が走った。そのまま店の裏まで曳き回されたところで、キサラはなけなしの力をこめて口を開いた。
 「や、めて。わたし、わたし……貴方たちを、ころしてしまう」
 ひきずられるのを、弱々しく抗う。ろくに食べるものも与えられていなかったが、牢内でじっとしていた分だけ僅かに戻った体力と自分の命をすべて遣い切ればすぐにでも石通りを血で濡らしつくせるだろう。現に今、身の内で竜が唸るのを抑えるだけでも辛かった。キサラが憎いと思うものをその牙は喰らってやりたくてたまらないのだ。
 だが、キサラは竜を解き放ってしまいたい衝動を懸命にこらえた。もう血の臭気に酔うのはたくさんだったから。其れがどんなに甘く、愚かな我儘であるかは解ってはいたけれど、喩えどんなに酷い人間であったとしても、噛み殺さずに済むならと。自我がまだ竜を抑えていられるうちはと願った。
 「はん、細い腕しかもっとらんクセに」
 そんなキサラの葛藤を知らぬ奴隷商人は手下に命じて、キサラの上体を起こすよう言った。手首を強く引き上げられ、肩が抜けるように軋んだ。痛みに喘いだ娘は下卑た笑みが見下ろすのに気取られ、商人が懐から出したものを良く見ていなかった。細い紐のようなそれを手で捏ね繰りまわすのをぼうっと眺めて、はっと目を見開いた。
 手に持つのが鞭だと気付いた瞬間、ひゅっと鞭が唸り、背に一筋の痛烈な痛みが走る。仰け反った顎を、商人の手が鷲掴んだ。
 「顔がようて助かったな。父か母かは知らんが、其の顔を継いだをありがたく思うがいい。…だがもう少し口の利き方を学ばんと次はこうも簡単に許されんからな」
 何を言われているかは言葉が違うから解らない。解らないままであれば良かった。なのに、キサラを虐げる眼差しに村の長が重なって見え、あの怒りが再沸する。熱を孕んで疼く背の痛みとあいまって、母を思いださせるかと罵った。…理由も無く。
 ― もう駄目だと、キサラは絶望に心を閉ざした。
 元より私憤で呼んだ竜なのだから、相応しいといえばふさわしい使い方ではあったけれど。それでも、どうしようもない哀しみが頬を濡らす。こんなにも愚かしい己の在り様に。
 おいでと招けば、足元の闇から伸びた鋭い爪がキサラを押さえ込んでいた手下の男の肉を深く抉りとった。そのまま地面に爪をかけ、竜はその巨躯をぬるりと影から持ち上げた。護るように、へたり込んだキサラを其の躰でくるむ。
 威嚇に低く鳴らされる咽喉、こちらをねめつける鋭い眼光。ひっと息を呑んだ男たちはけれど手に持つ剣を竜に突き立てようと口々に吼えた。奴隷商人といえば、情けないほど醜く顔を引き攣らせ、恐怖に泡を吹いて後ずさり建物の壁にへばり付いていた。そのけだものを殺せと喚きたてる命令を受けて、円陣を組んで竜にじわりとにじり寄る白刃。
 また一声、竜は吼えた。獣が襲い掛かるとき特有の、頭を低く屈め躰を沈み込ませる体勢で尾を地に打ち付ける。その衝撃で近くの壁に亀裂が入った。
 両者の力を鑑みれば、竜が圧倒的に強い。だが、頭数が多くどれから殺したものかと考えたその一拍の間だけ、竜とひとは拮抗した。そろりと動かした尾がこの奇妙な緊張を断絶せしめんとした刹那。
 「待て」
 良く通る、少し低めの男の声だった。その場に居たものが、彼は果たしてどちらを止めに入ったかを迷ったのは男の視線がキサラを射貫くように見つめていたからである。
 『…娘、その竜はお前のものか』
 問われるままに、頷いていた。そうさせるだけのものが、男から滲み出ていた。すらりとした長身、煌く黄金の腕輪。だが男の佇まいはその身なりに依るものではない。強いひかりを宿す瞳は射竦めた者を捉えけして放さず、それこそが男の持つ覇気を威厳あるものにしていた。
 「うつくしい竜だ、気に入った。…おい、其処の男。俺がその娘を買おう。問題あるか」
 この商人は、遊興に耽る国官にも取り入ったことがあり、王宮の庭までくっついていったことがあったのだった。その記憶の中、今この場で平然と立つこの男を確かに見た。政の中心部に喰いこむ権力者。神官のひとりだと震えがたった。
 何故このようなうらぶれて欲ばかりが横行する裏通りに居るのか。疑問は湧いたが、この際気にするには値しない。
 「な、ないですとも!!!!神官の方ならばこのけだものを調教できますでしょう!」
 厄介事は御免だとひたすらに平伏する奴隷商人の眼前に、現れた長身の男は、手持ちの荷を漁り、手頃な麻袋を無造作に放って寄越した。地に重たく落ちる音から大枚が入っているだろう其れを、商人は流石と言うか震える指でもすかさず中身を確かめると即座に両手でくるみ、すっかりひけた腰を奮い立たせて壁を這う。
 「た、確かにお売りしましたぞ、も、もうしわけありませんが、突き返さんでくださいませよッ?」
 もう最後は殆ど悲鳴に近いのを、金を放った男は鬱陶しげに見送った。
 「…ふん、煩い男だ。俺は手持ちに竜がほしいのだから、あれしきの金で損をするわけがなかろう」
 竜を飼い馴らせないという考えは毛頭無いらしかった。侮蔑の言葉を吐き捨てて、仕立ての良さが伺える白い衣の裾を翻しキサラへと臆することなく近寄ってくる。
 無意識に、怖い、と竜の首に縋り怯えた眼差しを自分に向ける少女をも意に介さない歩きぶりだ。行われた行為から察するに自分はこの男に買われたのだと、キサラは目に見えて怯えているというのに。男が一歩近付くごとに、竜を抱く腕に力が篭もった。荒い呼吸が畏れるのは、抑えきれたと思った殺意の衝動が再び疼くことだ。
 ― 寄らないで。
 殺してしまうと背筋が粟立った。
 『娘、名は』
 「ぇ……」
 「名はあるかと聞いている」
 キサラは我が耳を疑ってかかったが、面倒そうに話す男は、確かにキサラの解る言葉を使っている。そういえば、先ほども。
 「お前の生まれた土地の言葉を使ってやっているつもりだが、違ったか?」
 「い、いえ…」
 「ならば早く応えろ。余計な手間をかけさせるな」
 「………キサラ」
 「竜は」
 「え、と…その…まだ、ありません。まだ、このこに名前は無いんです…」
 付けるつもりなど毛頭無かった。考えもしなかった。きっとすぐに自分は死ぬと心の何処かでそう思っていたから。
 「ならば俺が決めてやる。いいな、俺がお前の主人になったのだから好きに呼ぶ」
 有無を言わせない口調だった。
 「あの」
 「…なんだ」
 「このこ、怖くは無いんですか?」
 我ながら可笑しな問いかけだったかと恥じたのは、男がふっと低く笑ったからだ。
 「怖いか、だと?思わんな。…うつくしい竜だ、ずっと欲していたものをどうして怖がらねばならん」
 言って。…男はすっと手を伸ばし、竜の頬から喉を撫でた。獣は嬉しそうに目を細めたものだから男は、良し、と満足げに軽く叩くと手を離した。
 あまりに堂々とした振る舞いに、キサラはただただ目を瞠り。ふっと毒気が身から抜け落ちるのを確かに感じた。張り詰めていたものがこんなにも重かったのだと初めて知る。
 「我が僕に遠慮するようでは主人になどなれんということだ」
 難なく言い放ち、男はキサラを見下ろした。
 「良からぬ輩に目をつけられてはかなわん、今は竜をしまえ。…行くぞ、着いて来い」
 「は、はい」
 休んでね、とやさしく言い聞かせて竜をやわらかく抱きて身のうちに還す。
 そうかこんなにもやさしくしてあげられるのだと、思えば胸があたたかい。
 さて竜のほうを向けば即ち男に背を向けることになり、かの姿は見えなくなる。
 はやくしなくてはまた叱られるかと、慌てて振り仰げば。

 腕組みをした姿勢で、手持ち無沙汰に空を眺めている横顔が映った。

 「なんだ」
 瞳を瞬かせて見上げてくる少女に、憮然とした面持ちの男だ。
 ひどく不機嫌そうに問われ、キサラは戸惑いを口元までのぼらせ慌てて噤んだ。其れを、言えと強い視線が促す。
 「……さきに、行ってしまわれていたかと…」
 「…王都はひろい。路頭に迷われては困る」
 「それより先に、逃げるかもしれないからとは言わないのですか」
 一瞬だけちいさく目を瞠り、ついで男は薄く笑みを掃いた。
 「其れはありえんな。今、お前が身を寄せるべき場所は何処にも無い。そう、俺以外にはな」
 あまりにもはっきりと澱みないから、キサラは、そうなのかと自問も忘れたほどだ。
 そこで男は一旦言葉を区切り、ああ、と何かを思いついたようだった。

 「…主の名を教えておいてやる、覚えておけ」
 ― 俺の名は、セトだ。


*
 地面に座り込んでしまっていたキサラは、セトが路傍に留め置いていた馬の背に担ぎ上げられた。衆目の目を憚ったか、ざらつく荒布がキサラを隠すように被される。薄暗い中、解けた恐怖のかわりに緊張が躰を縛り上げた。行く先は当然告げられず、揺れる馬のうえキサラは固く手を握りこんだ。

 「…しかし酷いなりだな。あのうつくしい竜を持つにふさわしい格好には程遠い。…兎に角、汚れを落とすことだ。見苦しくてかなわん」
 邸に着けば早々、広い湯殿に放り込まれた。泥と砂、血がこびりついた衣服は捨てられ、新しいものを与えられた。真っ白な、やわらかい服。洗いあがりの肌に其れはとてもやさしくて、キサラは安心して泣いてしまった。ずっとずっと溜め込んでいたさみしいという感情が一気にこみあげてきて、どうしようもなく、ただ赤子のように泣いた。

 喪ってしまったすべてのものを想い、還らぬひとを想い、嗚咽が止まらなかった。
 そして、自分が傷つけてしまった多くの人間へ神の赦しがもたらされることを希った。冥土の世界で、さらに罰せられる事など無くていい筈だ。彼らはキサラに殺されたのだから。

 此処が安全な場所だと解ったわけではないのに、なのにどうしてだろう、どっと疲れて安堵に溺れた。ひたすら泣いて、しゃくりあげていたら、いつの間にかセトが複雑な顔をしてキサラを見下ろしていた。驚いて目を見開いた少女の前に、セトは腰をかがめて片膝をつく。間近に迫った憮然としたその面持ちに、びくりとキサラの肩が震える。
 「…泣くか怯えるかしか出来んのか」
 呆れたような声音しか出せなかった。金の髪も蒼い瞳も、顔かたちのうつくしい娘にとても良く似合っているのに、其れを台無しにしてしまっている。何がそうさせたのかと、興味を惹かれた。そうしてセトは気付く。他者に一切の関心を抱かなかった自分がどうしてだと。身を護るための確かなすべを持っているというのに、ひどく弱々しい目前の娘をじっと見つめた。そうしているとさらに不思議な感情が呼び起こされるからもっと妙な気分になる。
 竜を得る為にこの娘を買った。其の筈だ。…それだけだ。そう、言い聞かせ。涙をためた少女をあらためて見遣る。するとやはり、妙な気分になった。
 「何があった」
 「母様が」
 するりと口を滑った言葉に、キサラは慌てて俯いた。また溢れ出した涙をこらえるのに強く噛んだ唇が痛い。じわりと目頭が熱くなった。
 「……もういい。どうせ話せば泣くのだろうからな」
 溜息を吐いて、セトはキサラの頬に軽く片手を触れた。特に何か理由や思惑あってのことではなくて、勝手に躰がそう動いたのだ。まるで慰めるような真似だとセトは自嘲の笑みを心中に零す。そんなつもりなど、無い。…けして。
 そっと手を引けば、その動きにそよぐように少女が顔を上げた。大きな蒼い瞳が、瞬きも忘れてセトを見上げてくる。交わる視線。するとふわりと睫が揺れて、縋るような眼差しに変わった―ような気がした。妙な娘だと、セトはまた奇妙に疼く胸をもてあました。
 「休め」
 言い捨てて、腰をあげる。すると何に引っかかったか、くん、と衣の裾がひかれ何事かと思えば犯人はこの少女で、よくよく見ると、掌がセトの服の裾を掴んでいた。しかも、かたかたと震えている。
 「…何だ」
 溜息雑じりに問えば、今にも泣きそうにされた。仕方無しに手を伸ばせば、掴まりはするのに、躰をあげない。
 「もしやとは思うが」
 眉を顰めれば、少女は恥ずかしそうに唇を噛む。セトはふかく、ふかく溜息を吐いた。
 「……立てぬのだな」
 こくりと頷く。度重なる疲労のせいか、または不可思議な安堵ゆえか、キサラの足腰はすっかり萎えてしまい使い物にならなくなっていたので、我知らずセトに頼ってしまった。けれど、怖いと思う気持ちはまだ拭い去れていないから手が震えた。どうしようと己の取った行動を今更ながらに後悔する。だが、セトはキサラに手を差し伸べてくれた。彼女が其の手をとっても、払われなかった。ひどく嬉しくて、けれども何を言えるわけでもなく見つめるしか出来ない。
 男は微かに微笑ったかのように、みえた。というのも、良く確かめる間もなくキサラは背と膝裏を支点に担ぎあげられてしまったからである。ふわりと浮いた躰を固定させようと間近なもの―セトの首筋に腕を回して縋るように齧りついてしまったものだから余計に表情は窺えない。おそるおそる垣間見た横顔は、やはり無愛想なままだった。
 「動くな。…落ちたいのか」
 此方も見ずにセトは言う。慌てて、ふるふると首を横に振った。おとなしくしていろというからキサラは素直に身を預け、そうやって運ばれているうちにうとうとと微睡む。
 ― 不思議…。
 見知らぬ異国の地で、こんなにも心が穏やかになる。本当に、不思議だと考えを巡らせるうちに考える事も億劫になってゆく。
 ― ああ、こんなにも、遠くまで。とても遠くまで来てしまった……。
 ふいにそう思い立ち。
 母様、と呟くのを最後に意識を眠気に任せた。

 「手のかかる娘だ」
 そうひとりごち、すうっと寝入ってしまったキサラを無造作に抱えなおしかけて、セトはふと手を止め。一呼吸ののち、注意深く行う。
 起きてまた泣かれてはかなわんと、誰にも聞かれない言い訳を零して。



 ちいさないきものを扱うすべなど知りえない男は、まるで雛を拾ったようなものだと腕の中を見た。涙の跡ばかりが目立つ頬。力をこめれば難なく圧し折れてしまいそうな細い躰つき。ひどくか弱い生き物、それはセトに頼り切って眠っている。
 懐かれるのは性に合わないというのに、この光景は何だ。

 またひとたび、男の胸中に奇妙な感情がわだかまった。

 


+++終。 

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せ、セトキサSSです…遊戯王、原作ろくに読んだことないというのに!!(笑)


青年少女という取り合わせにひどく弱いわたしであります。そんな人間がセトキサ
に嵌りこめばどうなるか。…こうなりました。(結論)原作のふたりを見たコトなど一
度だってありはしないので、すべて想像です、というか妄想です。原作を知るひと
は色々とつっこめますでしょうね…寧ろすべてがね…。(落涙)とゆうことで、コレ
は原作に掠りもしないトンでもないSSです。よいこは信じちゃいけないよ!(笑)

白鷺の雛、というのは、特に意味が在るわけでもなく。ふっと浮かんだものをその
のまま使いました。語感がとても儚げで良いなあなんて思って。キサラちゃんって
綺麗なきれいな雛鳥みたいなんですもの。それを、如何扱ったら良いのか解らなく
て戸惑うセト様であってほしいなあ…!(萌え)ああもうああもう、そうです、わたし
はこういうセト様であってほしいのです。うん。表君に「それ絶対伝わりにくいよ海
馬君(に似た人)…」とかスルドく突っ込まれてほしかったり。(笑)ぶっきようにや
さしく、大事にだいじにしてやってくださると
いいなあ……。それでそれで、キサラ
ちゃんにはセト様を無垢に慕ってほしい。
―とか。とか。夢を見てしまうのでした。


◆◇◆
THE★古代エジプト。

鉄なんてあったんですか?    (金が精錬できたんだから鉄だって…きっと)
麻、ねえ……。               (パピルスあるんだから麻だって…!)
風呂あったか?   (そりゃ湯船はないと思うけど、躰を洗い流す場所くらいは
あったと思いたい…思わせて…!!)

イロイロと嘘いってます。

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