太郎が、ふっと目を覚ましたのは真夜中だった。雪の降りしきる音が、なぜか不思議と藁葺きの家に響き渡っていた。

 むっくりと、その小さな身体を起こすと、温もっていた薄い布団から這い出す。太郎を挟んで両隣の父母は、太郎が抜け出ても寝息一つ乱さない。…疲れているのだ。眠る父母を見つめ、そして太郎はなぜだろう、と思った。何故、自分は暖かい布団から離れたのだろうと。

 ―オイデ。

 ―さァ、オイデ…

 なぜ布団を出たのか、自分でもわからずにいる太郎の耳に低く囁くものがあった。

 ―デテオイデ。アソボウゾ、アソボウゾ。ワレトトモニ、アソボウゾ…

 生温かく、野太い声だった。いや、声のような気がしただけで、実際はそうではなかったのかもしれない。幼い太郎の脳髄に、幾度もざわめきかける囁きは、太郎を頻りに外へと誘った。

 冷えた木戸は触れば震えがはしるのに、今夜は何をも感じなかった。まだ四つや五つの幼い子どもには重く堅いはずなのに、いとも簡単に横滑り、太郎は外へと歩み出た。



 黒くつぶらな目に映ったものは、うつくしい雪原だった。白く積もる雪の上に、さらに舞い落ちる雪は止むことを忘れているかのように、切れ目無く天から降りつづけている。闇の時間だということを失念するほど、目前の雪は輝いていた。

 太郎は、この光景を父母に教えたいと思ったのだろう。急いで身体を捻り、振り返った。

 ― な い

 煤け、古ぼけた藁で葺かれた家は、無くなっていた。つい先ほど太郎が出てきたはずなのに。父母が眠っていて、降るものに雪化粧されているはずの家は、最初から其処に無かったかのように、忽然と消失していた。

 「おっと、う?…おっかぁ?」

 たどたどしく口を動かす太郎は、けれどもその二言しか喋らせてはもらえなかった。

 突如として激しく吹雪きはじめた雪が、太郎に容赦無く襲いかかったのだ。轟々と喚きたてる風雪の音に混じって、低く唸る獣の声がした。其れは地を這い、天を翔け、縦横無尽に太郎を苛んだ。身体を抉る寒さよりも、其の唸り声は太郎を凍えさせた。

 追い立てられ、太郎は懸命に逃げ惑うた。しかし、何かが太郎の行く手を阻む。”其れ”は、太郎が右へ走れば、その先に。左へ走れば、その先に。太郎の前へ前へと先んじて回り込んだ。其の度に向きを変えては逃げる太郎。こけつまろびつ、しかし一度でも躓いてしまえば終わりであると、遮二無二走った。涙で歪む視界にちろちろと見え隠れする紅いものは、執拗に吼えたてる”其れ”の口だと、何故だか太郎は分かってしまったのだ。

 ―たべられる。あのあかいところで、たべられる。

 逃げられなくとも、太郎はますます吹雪く中ひたすら逃げた。…だが、ひときわ強烈な一風の前には、小さな身体なぞまるで木切れ同然だった。中空へ巻き上げられた太郎の顔、其のすぐ横を何度も掠めた”其れ”。

 霞みゆく目で、太郎は”其れ”を、見てしまった。

 ―    …。

 冷え切り、凍りついた喉から音は出ず、唇が僅かに震えただけだった。

 太郎を追い立てていたのは、雪よりも白い狼だった。狼とはいっても、普通目にするものとは、色も姿も明らかに違っていたが。何しろ、狼たる部分は頭だけだったからだ。”其れ”には、前足も後足も無かった。尻尾も無かった。…それらがくっつく胴だけはあったが、細く長くたなびいていて、良くある獣の胴とは言えない。終わりの方など、闇に溶け込むように薄れていて、さながら亡霊のようであった。

 …そう、白い狼には、頭部と変わり果てた胴しかなかったのだ。

 吹き上げられ、叩きつけられ、それでも身体は起き上がったかのようだったが、あくまで反動がそうさせたに過ぎなかった。耳にするのも適わないくらい小さな音を立てて雪面に沈み込んだ太郎に、荒れ狂う吹雪が更なる猛攻をかける。

 肌を斬りつける風と、礫のように打ちつける雪に抗う気など、当に失せていた。朦朧とする意識を手放す間際に、ふと太郎は思い出す。いつぞや、父親が己の膝に乗せた太郎に語った、雪降る山で人を惑わす妖しどもの話を。

 ―雪狼―

 確か、話に出てくる妖しに、そのような名を持つものがいなかったか。





 「のぶる」

 すっかり吹雪はなりを顰め、ただただ、雪は白く留まっていた。動かない太郎の周りを飛び回り、鼻面を近づけては匂いを嗅ぐ雪狼の傍へ、滑るように近寄るものがいた。いいや、正確には、横たわる太郎の傍へ来たのだ。雪狼を太郎から剥がそうと、其の間に割って入る。のぶる、とは雪狼の名か。

 「のぶる、もう狩りを充分楽しんだでしょう。…次は、わたしが楽しむ番よ。お行き」

 『お氷』

 「お行きといったのが聞こえなかったの?雪女郎は、一人静かに舞い踊るのが好きなのよ」

 『ゆく、ゆくとも。わっぱを狩るのは愉しかったぞ愉しかったぞ!お氷も愉しめ愉しめ』

 「そのつもりだわ。…いいから、お前は早くお行き。ぐずぐずしていたら、すぐにも夜明けがきてしまうじゃないの。わたしの時間を削らないでちょうだい」

 天女の如き裾ひらめく白い衣を着、その長い袖を振って、雪狼を邪険に追いやろうとするのは、少女であった。年は十をいつつむっつ過ぎた頃合に見えなくもないのだが、何しろ寸法がひどく小さい。背丈が太郎の半分あるかないかという具合だ。

 『すこうし散歩してくる。夜明け頃には迎えに来るでなァー』

 雪女郎は返答しなかった。雪狼も、返事を待たずに飛んでいった。人を狩るまでが雪狼の領分であるとすれば、狩った後は雪女郎の領分…舞のための舞台なのだ。





 楽なぞ無い。そのようなもの、雪女郎の舞には必要が無いからだ。音無しこそが至上の楽。吹雪く音が無ければ張り合い無いと豪語する雪狼とは正反対に、静寂を好む。

 もはや何の音も其処には存在を許されはしない。雪女郎は、静かに…だが時に狂おしく舞い踊る。雪原をすべったかと思えば、いと優雅に衣を翻しながら中空に円を描く。ゆるりと首を傾げたかと思えば、諸手をたおやかな素振りで振り仰ぐ。

 その雪女郎の流麗な舞は、魂を奪い取る儀式なのだろうか。倒れ臥す太郎の顔色はひどく蒼ざめ、ぴくりとも動かぬ身体にまだ血の気が通っているのかどうかも既にわからない状態なのだが、そのように感じさせるほど、雪女郎は太郎の周りを、ひたすら行きつ戻りつ上がり下がり舞い続けた。完全な死人<しびと>となるまで、やめないつもりだと言うかのように。

 だが、夢中で舞う雪女郎を、一条の陽光が照らした其の刹那のことだった。しなやかな肢体が、凍りついたかのように動きを止め…そして、膝から崩れ落ちたのだ。

 陽光が雪女郎の力を奪ってしまうのか、闇が雪女郎の力を高めるのか。真偽の程は定かでないが、雪女郎が頻りに夜明けを気にしていた理由は、おそらくはそうだったのだ。

 ―嗚呼、夜明けが…夜明けがきてしまった…まだ、まだ終わるわけには、いかない、のに…

 先ほどまでの溢れんばかりに満ちた玲瓏たるうつくしさは立ち消え、背を雪に預けかけた雪女郎を、いずこからともなく現れ出でた雪狼が受け止めた。

 ぐったりとした雪女郎は自ら何をすることも出来ず、雪狼のほうが身体を動かす形で、安定するよう担ぎ直すと、すぐさま雪狼は其の場を後にし、闇の残る方へと消えていった。





 「………」

 雪女郎と雪狼が去った雪原を、陽光が徐々に徐々に温め始めた。暫くするとどうだ、死んだかと思われた太郎がもぞもぞと身体を動かしたのだ。最初に指、次には手足、次第に動く箇所は全体に及ぶ。妖しは、太郎の命を完全には奪い切れてはいなかったということだろうか。

 緩慢ではあったが、太郎は立ち上がると、少しの間ぼうっと物思いに耽っていた。

 ―…たべられたと、おもったのに。

 ―ぜんぶ、ゆめ?

 小首を傾げ、気を失ってしまう前を思い出そうとして、ふいに足元に感じた雪の冷たさが太郎の思考を中断させた。

 ―きっとゆめだ。

 太郎は、小さな足で雪を踏み固めながら、家の中へ戻ることにした。

 ―だって、いえはちゃんとある。なくなったのは、うそなんだ。だから、”あれ”もゆめなんだ。

 数度頭を振って、太郎は忘れようとした。…忘れられるかは別として。





 雪妖との夜が、終わった。



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かわせみ座という人形劇団の公演「まほろばのこだま ののさまたちが目を覚ます」

を見る機会に恵まれまして。1つあたり10分程度のものを7、8話ほど鑑賞いたしま
したのですが、其の最後の演目だった、雪狼と雪女郎と子どもの人形で演じられた
作品が、何だかとっても気に入ってしまったのか…見ている間にも、文章を考え付い
てしまっていたのですね。(苦笑)この演目は、吹雪く音と効果音だけしか音声はあ
りません。ですから、各キャラの台詞回しやら心中表現やらはおろか、話のストーリ
ーさえも、ワタクシが勝手に解釈してしまったものを形にしただけなのです。これを以
って感想と出来れば良いのですが…あ、あのやはり無茶苦茶な感想ですか?(汗)

しかも、演目自体は、吹雪に襲われはじめる太郎から話が始まっているのです。つ
まり…このSSの前頭あたりは、全くのオリジナルです。話を組み立てていくと、どう
してもですね、太郎が雪の中に居た理由が欲しくなってきたので。喚ばれた、という
のが、一番すんなりくるかなー、と思ったのですよ。幼いこどもが親に捨てられた説も
浮かんだのですが、考えている段階で既に話が切なくなりそうなのでやめました…。

感激してしまった気持ちをどうにかして表したくて、一生懸命書いたのですがー!!
5時間ほどかけて、ひたすら書き綴ってみました。情熱ってスゴイや!(ホントにネ)
いつもの作品とは少々違う表現を多用した文章ですが、つ…疲れまーしーたー…。
人形劇がどんなモノであったのか、少しでも伝えられたならばとても嬉しいのですが。


各演目ごとの題は取り決められてはいないようでして、この演目も、残念ながら正式
な御題はわかりません。当SSも、回転の悪い脳でもって、勝手に付けたお題です。
しかも私の造語です。こんな単語は古い辞書にも載ってません★………うっわ、あ。
(読みは”せつよう”意は”ゆきのあやかし”だったり。←まんま)

ちなみに、各人形たちの名前は、配布された簡易パンフレットに載っていたものです
ので、間違ってはいないと思います…。ワタクシが雪狼だと思ったり雪女郎だと思っ
たり太郎だと思ったりした人形の名前であると、頑なに信じて使わせて頂きました。

(中略)
太郎
雪狼のぶる
雪女郎 お氷

…と書いてあったので。
雪狼は「ぶる」か「のぶる」か迷ったのですが、でも「のぶる」の方が語呂がイイと思
ってしまったので…。ううーん。ホントは雪狼の「ぶる」だったら申し訳ありませんっ!

座敷童子の雛子、だったら「雛子」だと確信できるのですけども。(言い訳はするナ)


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こういう感想の伝え方って、怒られちゃいそうですね…。でも、その、イマジネーショ
ンを非情に掻きたてられるすばらしいお芝居だったので、居ても立っても居られず。
拙い文章にお付き合い頂き有り難うございました。
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