§[ 薄荷ドロップス:サンプルテキスト ]§



 伊波は、目まぐるしくその見目を変えるこの巨大な街を黙ってみていた。


 人とモノが絶えることなく溢れ、忙しなく行き交う、この国の首都たる此処、東京の地に其れは在る。
 ― 私立月詠学院高等部
 高層の建物が所狭しと乱立する中に置いても、一種の独特たる雰囲気で他を圧倒するかのように鎮座ましましている。
 古めかしくも朱の目立つ天照館と比べ、白と灰のみで構成された近代建築の内装は何かを拒むように冷えきっていた。



「― 月詠との結盟に関してだけは、正攻法で行くが。…悪いな飛鳥、少々試したいことがある」
 伊波は少しばかり眉を顰める。九条のこの言葉に注意して同行したが、飛河・京羅樹・姫宮の三名に至っては九条の言動にさしたる不具合は見受けられず何のことかを判じかねていた。

 先ほどと変わらず彼らに拒みつづけられるうちに、九条に注意を払うことすら忘れかけていた。月詠の者たちに意識を向けなければ此処まで付いてきた意味が無いからだ。


 学院内を巡り、二度目に凛とまみえた時。伊波は、ふわり、と、ざわついた氣の流れにすべてを悟った。

 ― このひとは

 どうしてだろう、何故か、伊波は、其の身の血が賑わうような錯覚に囚われる。えもいわれぬ戦いの気配に、躰の奥深くで《何か》が躍動する。
 其れを不謹慎だと罵る理性が、伊波の唇を動かした。
「…!(だって此処は― )」

 此処は。
     ― 刀を抜いて良い場所ではない。

 九条が一歩、踏み込んだ。刀が鞘走り、一瞬で抜刀。しかし常の討魔よりも若干、速度が遅い。伊波にも剣閃が見切れた。
 だが、凛とて剣士。九条が踏み込んだ時すでに指は剣の柄を上げていた。

 夥しい剣氣が二種、力場を作り凄まじい速度で孤を描いて地を這う。絡み、立ち昇る螺旋の奔流が九条と凛を中心に噴き荒れた。

「総だ…!!!!!!」

 けれども、もう、伊波の制止は遅い。

 鞘の半ばまで抜けた九条の刀と、鞘から煌めく刀身を覗かせた凛の剣と。
 鋼が触れ合おうとするまさに其の時、キン、と鋭い耳鳴りが三人を襲った。

「つっ……」
 目を顰め、凛が怯む。九条は九条で、その刀を鞘に収めながら痛そうに瞼を瞬かせていた。伊波はといえば、片手で耳もとを抑えながら唸るばかりだ。
「― ちょっと総代…、校内なんていうオフィシャルな場でいきなり抜刀したのも問題ですけどね、何です?これ。俺の目には、刃と刃は交わっていなかった。その前に総代、止めたでしょう?なのに」
 余韻が鼓膜にまとわりつくようで、気持ちが悪い。如何ともし難い不快感が喉を掻き毟る。
 九条は、しかし、伊波の問いかけにかぶりを振った。俺でない、と。
「止めたんじゃない。言うなれば、薄く柔らかい、壁のような結界に止めさせられた。互いの持つ刀の剣氣が俺たちを止めた。この耳鳴りは其の所為だ。…ああ、まだ耳がおかしいな」
 参った、と言わんばかりに不快げに眉を顰め、しぱしぱと瞬きを繰り返す。そんな九条を、凛が烈火のように熱く、鋭い眼差しで貫いた。剣呑な雰囲気は九条の連れである伊波の肌をも刺す。居心地の悪い空気がとぐろを巻いた。
 何を思ったか、九条が困った風に微笑う。
 凛の柳眉が勇ましく攣りあがった。九条の態度が、ぎりぎりで保たれていた感情の箍を外したのだ。
「…貴様…どういうつもりだ、九条綾人ッ!学院内で抜刀するとは無礼にも程があるぞ。―っは、天照が此処まで礼を欠いていたとはな。あまり月詠を軽んじられては腹に据えかねるが?」
 冷静沈着が人の姿を取っていたかのような凛が声を荒げたのも無理は無い。彼女の言い分は正しいだろう。遠慮なしにねめつけてくる凛を前にして、九条は、心底すまなさそうに頭を下げた。
「うん、其れは謝る。悪かったな。其方に喧嘩を売るつもりで抜いたわけじゃない。…だが、抜かぬわけにはいかなかった」
 九条はすっと其の目を眇め、視線を下ろし凛の持つ剣を見た。
 ただ真直ぐに、剣に焦点の合う瞳。逸らすことなく、じっと。

「確かめたかったんだ」

 そう言ったときの九条の目は、何かに強く焦がれるようだった。不乱の眼差しが離れない。
「?」
 凛が、訝しげに眉を顰める。
 しかし瞬きほどの僅かな次の間で、九条の放っていた話し掛け難い空気はさっぱりと拭われる。
「いや、気にするな。まあ其れは兎も角騒がせて悪かったな、すまん」
 眦をやや下げ、少し困った風に微笑う。人の良い笑みに一瞬ほだされそうになるが、凛も伊波もそんなものにそう易々と丸め込まれるような人間では無い。
「九条綾人」
「ん?」
「そのような曖昧な答えでひとを煙に捲けると思うな」
 九条は一瞬まるく眼を瞠り、ひどく楽しげに破顔した。
「はっはっは。なかなかどうして、おかしなことを言うじゃないか。そもそも俺は何ひとつ答えちゃいない」
「…狸が」
「気になるか?」
 含むところを隠さない物言いで、九条は凛に探りを入れてくる。その口元は、何かを企むように笑んでいた。凛の目が鋭く細まる。
「見くびるな。私はそのような挑発には乗らん」
 総代、と伊波が小声でこれ以上の諍いを咎めたが、返事は返らない。
 ― いざとなれば力ずくで引き離せ、という意味かな。
 小さく溜息をつく。九条の態度に、勝手な解釈もしたくなるというものだ。自分や一ノ瀬も、九条に気に入られた時はかなり構われたものだから何とはなしに察しがついた。このひとは、鳳翔凛を気に入ったんだな、と。たぶん、今の自分はあの時の紫上と同じような顔をしているのだろうと伊波は思う。
 明らかに不快だ、と言外に漂わす怒気に、すっかりかやの外な伊波は居場所が無い。ちろりと、軽く責めるような視線を横にしてはみるものの、其処に居るのは狸だけだ。
「…あまり私を逆撫でするな。抜かずとも、鞘だけあれば貴様など叩き潰せるのだぞ」
 強い覇気が、澄んだ紫玉の瞳を水晶の如く硬質化させる。なれど九条は応じず、ただ口元に太い笑みを見せるだけだ。
「その刀は、俺の刀を斬らない。だから俺を斬れない。故に鞘も言うことは聞かない」
「…何を言っている?」
「謎かけだ」
 楽しむような物言いで、あっけらかんと言い放つ。目は完全に微笑っていた。
 さしもの凛も、すぐには二の句が告げないほどの態度だ。
「…総代、ちょっと宜しいですか」
 はあ、と伊波はひとつ溜息をつき。
「でも其れは、貴方にも当てはまることですよね。さっきのアレ」
「うん、まあな。俺の刀も彼女の刀を斬れないし、だから俺は、…抜いたのだろう」
 言いながら、九条は凛を見た。


「やっと見つけた」


 横目に見た、口元の笑み。
 言葉は、ひどく倖せそうな響きを醸していた。

 ほんの数秒、時間がゆるく過ぎる。凛の、息を呑みくだすのどの動きが妙に緩慢だった。






― 転生本第二弾「薄荷ドロップス」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋


凛を気に入った総代が、ものすごく積極的にアプローチするお話。ひどくシリアスめいていますがほのかにギャグの香りが漂う一品です。コンセプトは青年少女でエロリ(※)。

※エロリ:字面から受ける印象よりずっとストイックなものを指しております。青年と少女の微妙ないちゃつき雰囲気を楽しむのです。愛情はあっても欲情は少ない。むしろ無い。


ちなみにエロリテキスト部分(笑)はこんな感じです。↓



§[ 薄荷ドロップス:サンプルエロリテキスト ]§



 霧が晴れる。同時に、幾つか残っていた天魔の遺骸も、風が砂を掃うようにざらりと崩れて消滅した。形を構築するための軸となっていた何某かの魂は、伊波たちに打ち砕かれ既に天に昇っている。残るものは、まさしく『形骸』と化した空の器に他ならない。
 とうに陽は落ちきり、地平線に赫い波がほんの僅かに波打つだけだ。街には既に薄く闇が蔓延していた。

 眉をしかめた九条が凛の前に立った。
「なんだ?」
 見上げる瞳のきつさに、けれど九条は少しも怯みはしない。
「…顔に血がついている」
 見れば、凛のしろい頬に、ぽつぽつと、どす黒い血痕が付着している。血飛沫が飛んだかのような其れは、先ほどの戦闘で被った返り血だ。
 指摘され、凛の細い指が頬を探る。が、当然ながら鏡も無しでは位置をうまく掴めないらしく、迷うばかりだ。嫌になったのか、指が止まる。
「ああ、…後で拭う。構うな」
「駄目だ。女の子が顔に血を、しかも天魔の血をだな―、つけたままで平然とするんじゃない。早く祓わんと穢れが残るぞ。…動くなよ」
 凛が拒む間もなく、九条の指が伸び血の痕に触れる。するりと撫でるように動かせば、天魔の血は淡く融け、仄かにしろく光を生んだ。
「…」
「これで良し。…ん?どうかしたか?」
 一安心だと頬を緩める九条とは反対に、凛は眉一つ動かさない。強張った凛の表情を窺おうと、九条が距離を詰める。息がかかるほど、近い。
「……凛?」
 声をかけられて漸く、はた、と瞬きがされた。
「ッ!い、いきなり何だ貴様ッ」
 肘鉄が飛んだが、九条は適切な間を取り、難なく避ける。
「、っと…危ない。あのな、そっちこそいきなり何だ?」
 凛の目元が、わずかに赤い。

「―ふざけるなッ!」
 鋭い声が、空気を裂いた。






― 転生本第二弾「薄荷ドロップス」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋


…後半は総代、こんなもんじゃないですけどね。(ふっ)(どういう意味)