§[ 玻璃の鈴 銀の鞘:サンプルテキスト ]§
気がつけば、もうすぐそこに滝が見えていた。 「貴方は、やっぱりひとの上に立つひとですね」 「うん?」 紺青の髪がふわりと揺らぎ、片頬が伊波に向く。そのまま流れるように半身が振り返った。転身がてらに片足を半歩退き、きれいな孤を描いて足捌きがなされたのは流石と言おうか。襟元の綾紐が、躰の動きにやや遅れて鮮やかに踊った。最後に、首から下がる厚い銀の板が鈍く煌めく。そうして九条は、いつしか伊波と向かい合わせとなっていた。 「飛鳥?」 促すように、名を呼ぶ。だから伊波は、もう一度言った。 「貴方は、やっぱりひとの上に立つひとですね、と言ったんですよ」 「理由は?」 「道を歩いている姿は、一番ひとの目につくんです。だからね、道をしゃんとして歩けるひとでないと、上になんて立てないってことなんですよ。見られる姿がうつくしくないと様になりませんから」 「なるほど。面倒な行儀作法も何かと叩き込んでおくものだな」 「あれ?どうかな、面倒だなんて思ったことも無いくせに。貴方がその身に覚えこませていること全部が全部、ね。とりあえずは何だって、無駄にならないだろうと解っているから貴方は色んなことを学ぶひとですよ。…だから、ミスターパーフェクト、なんて、また何とも言えない通り名が付いているんだ」 苦笑を深めて釘を刺す伊波に、九条はひどく楽しそうに笑い声をあげる。 「其れは良いな。冗談と思って聞き過ごしていたんだが…、なんだ、わりと広く流布しているようだな」 「何しろ山吹教官が全校放送で言ってしまいましたから」 いとも涼しく、伊波は言った。 「はっはっは、そう言えばそうだったか。…いやはや参ったな、困ったことをしてくれたひとだ」 「身から出た錆ならぬ光、かな。だから、其れは教官がどうこうじゃなく、貴方自身の生き方ゆえに、ですよ。解っててください」 ふわりと笑う伊波だ。 九条がまばたく。照れくさそうに目元は和み、やれやれと呟いて僅かに頭を傾げた。視界にゆるく垂れた前髪を指ではらい、手で横へ薙ぐ。 「うん。面倒だとはっきり思ったことはたぶん、そう無いと思う」 「でしょう?」 瞼の動きとあわせて、九条は頷く。 「同じ生きてゆくなら、別に楽でなくとも良いんだ。…というか、楽を求めてはいけないな。暇になってしまうから。ひとの生とは、空虚であっては駄目だ。― 楽して格好良ければ倖せか?」 ゆるく、まばたき一つ。声はただ静かに空気を流れる。九条は伊波に肯定も否定も望んではいない。意見を問うているのだ。 伊波は、穏やかにかぶりを振った。 「貴方はそんな倖せを欲しない。『― 事は易きにあり、しかるにこれを難きに求む』貴方は孟子みたいに、そして彼以上に豪胆に、簡単なことであるならば寧ろ手強くかかってきてほしい、でなくてはハリが無い、と、そう言い切ってしまうひとだと見受けますね、俺は」 言えば、やんわりと笑まれる。しかし気丈なひかりが強くその目を彩った。 「ああ。生ぬるいのは性に合わん」 「良い生き方だと、俺は思いますよ。素直にね」 九条の、深い瑠璃色の目がやわらかく色を煌めかせる。やわらかく、滲むような笑みだった。 そんな風に微笑ってもらえるたび、伊波はあたたかな感情に、ともすれば胸のつかえるような感覚を覚える。…このひとに好かれることが、本当に嬉しくてたまらなかった。 ― 転生本第一弾「玻璃の鈴 銀の鞘」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋 「あなたが、其処に居るのなら」触れ合わずとも、背に感じる総代の気配だけで、伊波はまっすぐに前を見て走り出せるのでしょう。と、そういう想いで描いた表紙だったのです。 が。内容は、口を開けば「俺は、あなたのことが大好きですよ」と言っているようにしか聞こえない伊波と、どう見てもそんな彼の心情を解りきっているような総代とが仲良いだけの話です。(笑) |