§[ 不眠の都/Insomnia city :サンプルテキスト ]§



 かつて《江戸》と呼ばれた街、東京。
 陽が翳るやいなや、明滅する夥しい数の電飾が所狭しと夜の暗がりに咲く。
 極東の島国で最たる不夜宮が此処―。
 騒音とともに縦横無尽に都市を走る何本もの光の帯は途切れることなく伸び、くねり、分かれてはまた流れを戻す。
 明度・彩度・色もとりどりに灯りが溢れ返り、街は際限なく明るさをひけらかす。
 光を好み、喪うを怖れ、求めるがゆえに光を生み、その中にひとは居る。

 ひとが群がり造ったこの街は、眩い。
 されど、ゆえにその裏には今も昔も、其処此処にあらゆる闇が倦む都でもある。

 暗がりを歩く、音楽に篭り外耳を閉ざす若者。己の踝が引き摺る陰に混じる、くぐもる嗤い声を彼は聞かない。
 ―其の不気味な聲が、狂乱の囀りに変ったことさえも気付かない。



 夜の都に今宵、月は無い。
 空には、地上の灯りにしろく茫洋と照らされる鈍色の綿ばかり。
 月齢を鑑みれば形あるはずの月を後ろ手に隠し、街に重く圧し掛かる黒く澱んだ雲の隙間から一すじの雨が滑り出す。
 いつしか、雨雲は東京そのものをすっぽりと覆い尽くしていた。
 静かに降りだした雨は、徐々に激しさを強める。
 黄土を覆いつくす硬質の人工殻をほつほつと穿ち、染み入る雨にやがてすべての灰色の路は黒くぬめりを帯びた。

 水に濡れ、妖しく輝く不眠の都。聳え立つ光の群塔を雨はしとどに濡らす。

 雲の合間から白い光が叫んだ。
 白金の鋭光が空を割り、天と地を繋ぐ。
 先行した光を追って、轟き渡る落石の重音。
 眩い雷光の梯子は、天意を携えた使者の通る道となる。
 硬殻を破り、伝う知らせに黄土が震えた。

 ―金色の龍が降りる。大地は喚起し、天は眼を醒ます。



 もしもひとが黄土の眼を持ち永らえ、地面に殻を被せていなかったなら―
 大地が淡く金色に耀く様を、そしてそのひかりに群がり焼かれる小さな異形の姿をそこかしこでまざまざと目の当たりにしただろう。
 現代の東京に生きる人間の多くは何も知らず悪天候を罵り、季節柄に台風の到来を口にする。極一部の、勘の良い者らを除いてすべてはただいつも通りに進行していった。



 人々の足元、硬い殻の下層で黄土は眼を醒ます。
 ゆっくりと起き抜けに伸ばす手足は、気脈の流れとなって妖都を瞬く間に巡った。



 地上から数百メートルの上空、鉄塔の屋上。男が強風に髪を翻す。
 荒れる天候をものともせず佇み、眼下に広がる禍々しくも煌びやかな夜街を見下ろしていた。
 金色の男の眼はざわめく空には向かず、水と光が氾濫する地表の世界を視る。
 脈打つ気脈の通り道を追って黄金の眼は動いた。― 瞳孔は縦に細く鋭い。さながら獣の眼を思わせる。
 土地を巡る気脈が都市の所々で大きく氣を膨れ上がらせるのを見つけては、男は記憶するかのように其々の地理地形をじっと見つめた。押並べて、被殻でない土地ばかりだ。
 この妖都で霊場とされる選りすぐりのポイント、龍穴である。
 そして― 男は一等濃い氣溜りに眼を留めた。

 乱光のさなかにあって、息づく心臓の如く深闇と金色とが明滅を繰り返す奇妙な土地。
 男は吹き荒れる風に黒い髪を掻きあげる。視界を確保すると黄金の眼を細め― その一帯を凝視した。この光の都において、其処だけ灯りを剥ぎ取ったかのような…ほぼ真四角の闇。流れ込む龍脈を啜り、満足したのかその闇は淡い黄金の被膜をおとなしくかぶった。

 男は場所を把握できたのか、瞬き一つ、視線を外して観察をやめた。
水にぬめる都市をぐるりと見渡しながら、まばゆい天空を背に踵を返す。とめどない豪雨に、鉄塔の屋上は水を張っていた。男が足を踏み出せば、不思議とその一歩ごとに真円の波紋が拡がりゆく。雨に溺れない足。よくよく見れば― 水がすっと退くのだ、踏み込む男の足元から。
 されど男の視線は真直ぐ前にあり、己の足元は気にも留めてはいない。
 けたたましい雷雨の宴に沸く都の様子とは対照的に、落ち着きはらったものだ。
 男の両の眼は、― 今や黄金ではない。
 黒耀のふかい色合いであり、瞳孔は円。ひとの眼をしていた。






― 黄龍本「不眠の都/Insomnia city」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋




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