§[ 未開花月来香:サンプルテキスト ]§ この男の部屋に入るのはかれこれ何度目か。 気が付けば、勝手知ったるなんとやら、なのはどうしたものだろうかとはおもう。 部屋の主は、自分の居室で好きに寝転ぶ皆守を邪険に扱わない。 葉佩の部屋は、彩りがひどくシンプルながらも素材や使い勝手はなかなか質の良いものが揃えられていて、困ったことに居心地はわるくなかった。 …それがまた癪に障るのも確かなのだが。 「飲むもの、珈琲でいいか。あー、それとも…冷えるし、紅茶煮出してチャイってのも良い時期だな。どっちにしろ時間もらうけど。すぐ飲めるっていうとボトルの水くらいしかなくってさ、今」 「水以外なら何でもいい。お前の淹れるのは、どれでもそうわるくないからな」 葉佩が深い黒眼を瞠る。弛緩するその肩。 「九龍…お前が呆然と突っ立つ様ほどおかしいものはないぞ。寧ろ、気味が悪いといってもいい」 「ほめられた…」 「…だったらなんだよ」 不機嫌にかるく凄めば、男はまばたいた。 「とすると…深読みするに、つまり俺とお前の味覚ってかなり相性いいってことになる」 その目元がひどくうれしそうになごむ。 「だろ?」 「勝手にほざいてろ」 皆守は鼻を鳴らして部屋の奥に押し入った。 目指すは寝床だ。 学生寮という手狭の個室で客が坐るには椅子か其処くらいしかない。 だったら、据わり心地のより良いほうがいい。 何の遠慮もなしに葉佩のベッドを占領する。咎める声はしない。 枕に手を伸ばす。引き寄せ、好みに整えて頬をのせた。 あたたかな陽の香りと、…男の匂いがした。 鼻を埋め、そっと吸い込む。 「ちゃんと干してるぞ」 「どうだか」 花の香が染みた首筋をなすりつける。 葉佩に見られているのを承知で。 「あーぁ、またお前はそんなことする。自分が落ち着きたいからって好き放題しすぎ」 横たわり、背を丸める。 白い布に指をひけば、足を擦らせば、身じろぐそのたびシーツに皺がよる。 ひとのベッドだというのを気にしない。 「なんか、猫が寝てるみたいだな。おもしろい」 笑いさざめく声はすこし、遠い。 寝転んだまま視線を遣れば、作り付けの簡易コンロに続く間仕切りに凭れた葉佩がこちらを眺めていた。 やさしい眼。其れはたまらなく疎ましく、なのに、くるしくなるほど胸が掴まれる。 「あいにくと俺は観賞用じゃない。可愛げのある返答なんざ期待するな」 早くしろと睨んだ。 「はいはい、かしこまりましてお猫様」 「…九龍ッ」 「あっはっは」 手をひらひらと振って、葉佩は水場に消える。 そのままじっと見ていると、こちらからは、時折り葉佩の背中や後ろ髪が垣間見えた。 皆守は、葉佩の立てる生活音だのやがて香りたつ芳ばしい珈琲の匂いだのに微睡みそうになるのを押し留めようと意識を揺らす。 ― たとえば、…そうだな、 気に喰わないが、葉佩の評したように己を猫とする。幾度爪を立てても、唸っても、葉佩は無視もしなければ怒鳴りもしなかった。宥めすかされて一緒に陽に当たっていると、奇妙な感情に捕らわれて動けなくなった。ものを巧みに掛け合わせる細やかな手の動きを傍らでみていると、たのしかった。 いつしか。喉を撫でようと近付く指を、ゆるしてしまったけれど。かまわれることに慣れてしまったけれど。ひとと接することに対する葉佩のあきらめの悪さに、こちらが根負けしてしまったから。 けれどこの牙は、爪は、どうあってもやはり獣の其れなのだ。 …いつか牙を剥いても、この男は自分を赦すだろうか?それとも、躊躇いなくこの首を切り裂くのか。― 皆守は、かんがえる。 床がわずかに軋む。すぐ傍にひとが立つ気配に瞼が疼く。 ― この男は、どうするのだろう。 己の喉が噛み千切られそうになったなら、この男の手はどんな風に動くのだろう。 此方を殺しにかかるだろうか。それも、容赦無く。 「甲太郎」 鼻腔をくすぐる珈琲の香り。豆から挽いたものがこれほど良い匂いを漂わせるのを、皆守は十数年生きてきてつい最近知ったばかりだ。 手を伸ばす。葉佩のシャツに指がかかる。布越しに爪が硬い筋肉をこする手応え。 「ほら、面倒くさがらない。起きろ、そのまま受け取ると零すから」 そんなヘマはしない、と言いかけて、面倒になった。噛み付くのがひどく億劫で、おとなしく身を起こす。 カップが手渡された。あたたかな熱と、芳ばしい香りが立ち昇る。 「なぁ、九龍。…お前、あんな《遺跡》に篭りっぱなしでこたえないのか」 ふいに、葉佩に訊いてみたくなったのだ。 自分は耐えがたい。この先を、葉佩と共に進むことをおもえば思うほどに。 この男の技量と才覚は今まで《墓》を訪れたその誰よりも上をゆく。群を抜いている。すべての罠を解き、葉佩がいつか至るであろう、あの部屋は近い。 ― 阿門、と届けられぬ聲を皆守は胸に抱く。 「あのね、甲。」 葉佩はベッドの真向かいにあるパソコンチェアーを皆守に向き合うようにくるりと回すと、其処に腰を下ろした。ひとくち、珈琲を口に含む。ゆっくりと上下する喉。カップから離れる口は、ちいさくわらった。 「これしきで簡単に気を滅入らせてたら到底やってられない仕事だよ、トレハンなんてのは」 やんわりと肩をすくめ、わらって、…けれどその口もとは仄かにほろ苦さを醸した。 「まぁ、この《遺跡》はな、お前がそう咎めたくなるのも解らなくはない代物だけど。生身の人間を人柱にし続けただけあって、其処此処に蟠るひとの念がひどく生々しい。そして、重い。其れに息苦しさをまったく感じないかというと嘘になるな」 葉佩の荷重を受けて、キィ、と椅子が撓った。 「なら、やめればいいだろ」 「無理だよ」 低く良く透る声だった。 「お前に言ったっけ?言ってないよな、…とうさん譲りの座右の銘。」 皆守は、首を横に振る。 「聞いたことはない」 「そ。」 短く応え、そのまま、葉佩はもうひとくち珈琲を啜った。 その態度が、ひどく胸につかえた。 ―
九龍本「未開花月来香」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋 |