§[ 恋する櫻たちへ:サンプルテキスト ]§ ふぁ、と出かけた欠伸を噛み殺す。 六限目を終える終業のチャイムが鳴ると同じくして皆守は伸びをした。 腕を下ろしかけたとき、横にひとの立つ気配がした。 誰なのかは顔を確かめずとも解る。 面倒くさいが見上げてやると、葉佩が人懐っこい笑顔を深めて立っていた。生業上、身支度の早い男だけあって、まだ周囲が机上の品を鞄にしまい込んでいるさなかだというのに自分は後片付けを手早くすませ、脇にもう鞄を抱えている。 「さあ、出るぞ。甲」 笑い含みに、葉佩の腕が皆守の肩を絡めとる。指が喉もとをくすぐりにかかろうとするのを首で挟んで制すれば、「お、」と楽しげな声があがった。 細々とした所用に校内を廻る葉佩に付き合った。 すぐ済む、といったからだ。 …が、やれ図書室だ保健室だ果ては温室と敷地中をさんざ連れまわされ、漸く門をくぐれば、既にしんとした冷気が草葉の裏にまで満ちていた。 夕刻、冬を迎えた天香學園はみじかい暮れ方を過ぎると、辺りは次々と宵に色を落としこみ、帳を下ろし始めるのもはやい。 「寒ィ」 皆守はたまらず首を竦めた。今この土地がかぎりなくマイナスに近しいことを、肌を刺すような痛ましい寒さに知る。吐く息が白い。その白さが霞みのようにふっと立ち消えるのを眺めていて、視界にまた別のしろいものがよぎる。横を見遣れば、傍らに立ち竦む葉佩は凍える風もなく、ただ眼前の光景に目を細めていた。 くすんだ空、にび色の校舎を背に、はらはらと白いものが舞う。 厚い雲を幾重にもたなびかせた空から舞い落ちる其れはやがて量を増し、やむことなくしんしんと降りおちる。 「雪だ」 言った葉佩の声音はやんわりとひくく、けれど雪の舞う舞台へ躊躇いなく踏み出す姿はどこか華やいでみえた。多くの國を転々と旅して生きるこの男はまだ年若いというのに、毎年、― 冬を越す街が異なるのだという。 葉佩が振り返る。白い息があがり、黒い双眸はきらきらと楽しそうな耀きを放った。…たのしそうだった。 「甲、この街はこんなにも降るのか」 「冷えればな。」 けして雪の降ること無い土地を幾つも渡り、久しく日本の冬からは遠ざかっていたのだろうか。 「そうかぁ」 空を仰ぎ見たまま、葉佩は感慨深げに呟いた。皆守はそうだとだけ応え、ゆるやかに降りしきる雪の群れに掌を差し出す。 手ですくいとれば、じんわりと肌が冷えた。 ふわりと軽く、大ぶりの雪片。 指に触れた雪は、人肌の温もりに瞬く間に融けて、ぬるくちいさな水溜りに姿を変える。 歩き出す葉佩に、連れられて歩む。 地に着いて大地に融けあうまでのひととき、空を舞う雪は風に踊る真っ白な花弁のようだ。 天を仰げば、とめどなく咲き誇る雪の花々。 昏がりゆく刻をうっすらとしろく染まるこの閉塞した灰色の世界で、葉佩九龍という男だけが一際あざやかな黒を誇った。 アスファルトが地平線を上描く街の片隅で、ひととき翼を畳んだ鴉のように。 それは、風景になじむもひとの眼には異質なものだから。ゆえにその存在はひとの心を捕える。― こんな処でおまえはなにをしている、と。 葉佩は、ふるい櫻の木の下に居た。誘われるように、皆守もまた。 「なあ、怒ってるんだろう。…まだ、怒ってるんだろう?」 我ながら、ひどく冷えた声音だったと思う。 「甲、」 葉佩はいつものように、あたたかく微笑っていた。 「怒るとか、そんなさ、もうどうだっていいんだよ。赦すの赦さないだの、言い合う気なんかとうに失せた」 その黒い目が、潤んでみえた。 「だってお前、ここにいるじゃないか。だからもう、いい。いいんだ」 躰は冷えきっているのに、目元だけが熱をもって疼いた。 ―、泣いているのはどっちだ?…… ― わからない。 風がふく。 しろい花びらは風に乗り、花の群れはふくらんでゆるやかに弧を描き、舞い踊った。 そして。 物言わずひっそりとたたずみ息を潜めていた櫻の大木に、その枝先に、白い花弁が刹那に花開く。花は次々と咲いて、咲いた順に散り、されど櫻の木は絶えることなくみごとな雪を咲かせた。 風に舞う雪は、櫻のゆびさきからはらはらと零れおちる無数の花びらになって空を翔ける。 古木が息づく春を宿したように活気付き、世界は咲いた。 葉佩がすっと手をひらいた。 掌にすべりおちた雪の花弁を握り込め、もう一度、葉佩は櫻をみあげて目を細め、みごとな雪景色に魅入った。 「…きれいだな。まるで、櫻が咲いたみたいだ。 ―― ああ、そうだ甲。話をしよう、櫻の」 ― しな垂れる櫻の花枝のさきからはらはらと、雪の花が舞う。 ―
九龍本「恋する櫻たちへ」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋 |