§[ 皇砂のガレリア:サンプルテキスト ]§


 玉座に立った葉佩が碑文をその手に掴む。指が刻まれた文字をやわらかに撫でた。
「やったの」
 声がかかる。振り向き、労ってくれたサラーに葉佩が応えようと座を降りたその時だった。
 ドン、と何かが体当たる音が壁に床に鈍く反響した。
「天井、地下…いや、正面ッ」
「壁の向こうだ、葉佩。― 来るぞ」
 最初の一撃から間は僅かだった。その《何か》は激しく何度も壁を叩きつける。
 足を踏み固めた刹那、碑文の据えられていた台座の真逆、向かって奥の石壁が一瞬にして瓦解した。
 砂塵と共に大小様々な石片が床を転がり、細かい砂が葉佩たちに吹き付ける。そして、強い死臭が染み出でるのを嗅いだ。
 積年の埃がもうもうと舞い上がる中、獰猛な獣の唸りだけが鮮明に轟いた。
 血の失せた毒々しい青銅色の巨体。いびつに隆起した筋肉。生白い腹の辺りはいっそう醜く、皮膚を引き伸ばして内臓が垂れている。いや、破裂せんばかりに膨張した内臓が内から外へと皮膚を圧迫しているのだ。尖った鼻腔は二つに割れ、その隙間から死肉と牙が覗いていた。通常そのようなところに口は開かない。そして本来あるべき場所にもまた口はあり、爛れた歯茎に鋭い牙が抜きん出ている。赤茶けた舌がべろりと踊った。化け物の歪んだ背筋には、薄汚れた包帯で全身をくるんだ人型らしき固まりが乗っている。だが、包帯はまるで縛めのようにその身を縛りあげ、そうして犬に括りつけられている姿は罪人のようにすらみえた。あれは本体ではない― 葉佩も、緋勇も、察した。狙い、対峙すべきは犬のほうだと。
「《墓》を守る番犬…ならばアヌビスか」
「此処はまだ墓じゃない。なのに番犬がいるってのは腑に落ちないねぇ俺は」
「何をいう。お前とて解っているだろうに。この《遺跡》から辿れる先に《墓》があるというのなら、道中、アヌビスが一頭くらい置かれていても不思議はあるまい」
「…あんたって人は喰えないね。ハンターでもなさそうなのに何かと知ってる」
「知識に秀でた知り合いも多くてな。おかげで飽く暇すらないほどだ」
 化け物は爪を踏みしめ低く身を屈ませる。獣がそのような動作を取るならば、次は。― 緋勇と葉佩、ふたりが飛び退って空いた空間に牙が飛び込んだ。すかさず葉佩が銃を抜き、化け物の脚をめがけて撃ち込む。
 獣の甲高い咆吼があがる。
 葉佩の照準は非常に正確で、狙いを外れなかった。アヌビスの前脚の肉が弾け飛び、手負いの化け物は高く前脚を振り上げ身を捩った。不均等な躰はバランスを崩し、ふらつく四肢はたまらず後方へ下がる。
 生れたその隙を見逃さず、緋勇の手がサラーの上体を抱えて己の背後へ押し遣った。
「先に台座の影へ」
「お、おお。」
 化け物の襲撃を受けたというのに、老人の足腰は弱りを見せておらず、緋勇の指示に即座にサラーは応えた。経験も度胸も相当数重ねたであろうことがうかがえる。続けて緋勇、葉佩の順に身を隠す。
 碑文が収まっていた台座の背後にとりあえずは身を寄せ、注意深く顔だけを僅かに覗かせ動向を眇め見る。そしてまた葉佩は数発撃った。犬の悲鳴に似る咆吼がそのたびごとに遺跡を震撼させる。葉佩はそこで一旦やめ、躰をすっぽり台座に隠す。残弾数が気になった。胸に指を伸ばし、装弾にかかろうとしたその時だった。
「― っ?」
 今まさに開けようとしたベストのポケットがすでに開いている。銃の弾をしまっておいた箇所だ。舌打ちし、周囲を探す。以前開閉した際に緩く閉めてしまったのか。
「これか」
 緋勇がマガジンケースを葉佩の膝めがけて放った。サンキュ、と小声で応じ、葉佩は手早く弾を足す。
「見た目はともあれ、鳴き声だけは真っ当な犬だなアレ」
「ああも可愛げのない犬と戯れたくはないがな」
 息一つ乱していない緋勇を横目に確かめ、葉佩はリロードを済ませるとどこか面白おかしむ風に笑みを浮かべた。
「あれ、あんたこういうの驚かないタイプ?」
 ふ、と緋勇が仄かに苦笑う。
「似たモノをわりと見てきた口でな。こういう手あいへの対処の仕方は心得てる。…まあ、 ここまで見事にクリーチャー然としたのはあまりなかったが」
「そりゃ結構、わりと手慣れた感じだな、あてにさせてもらう。」
 に、と葉佩が口元を笑ませた。化け物の気配を肌で感じる。
「― さァて、と。どこ狙う?」
「眉間」
「お、即答だねぇ。根拠は?」
「― 其所で《氣》の流れが澱んでいる。撃ち抜いてやれば一気に流れ出すだろう。そうならばこちらのものだ。気脈を絶たれ均衡を崩した躰は持たん。風穴を開けてやれ」
「あの肉体はまがい物で、実体はあれども本質は虚ろなる骸。守護者の魂を留め置くための器。その接合を絶たれれば、この世での存在の維持は成しえない。如何にしてその接合を切るか、解りやすくいうと弱点ね、捜し当てるの俺も自信はあるほうなんだけどな。早いよ、あんた。― 年の功?」
「かもな」
 見えぬ視界で、犬の咆吼が轟く。石を蹴る獣の鈍い爪音が駆けてくる。強い腐臭が鼻先に漂った。致命傷を与えなければその機動力は削げない。
「まあ異議を唱える理由も時間も無い。言うこときくよ、ひとまずは、ねッ!」
 言い終わるやいなや、葉佩が飛び出す。黒い銃口を向けた数センチ先にアヌビスの鼻面が迫っていた。正確に眉間を狙うだけの僅かな時間が足りない。視界の片隅に振りあがった前脚と爪が見えた。張り倒される、と感じた未来に躰の芯が硬直する。
「チッ…!」
 ― とにかく一旦、遠ざける…!
 意志の力で躰を揮わせる。眼前の赤黒い喉を狙い、引き金にかけた指に力を篭める。と、その対象が消えた。
「は…?」
 驚きを搾り出すのがやっとだった。
 緊張にひどく渇いた葉佩の喉に強い風が吹き込んだ。咽せることすらゆるさない荒ぶる風に髪が弄られ、耳を激しく叩きつける。風鳴りの音が、そのとき世界を裂いたのだ。
 肉迫され、強く浴びた生臭い死臭に眩みかける視界を瞬きで強引に矯正した葉佩が見たものは、かるく数メートルを吹き飛ばされ、濛々と捲きあがる埃にまみれるアヌビスと、そして、
「緋、勇…?」
 いつ葉佩の正面に回り込んだのか、振り上げた脚を静かに下ろす緋勇だった。隙の無い優美さ。他に何と表せばいいのかすらわからない。研ぎ澄まされた武芸の型は、とても鮮やかで、そしてひどく綺麗だった。アヌビスが死する獣であるならば、今、相対する緋勇はさながら活ける獣だった。
「あれを― 蹴ったのか?あんた、が?」
 巨体を悠々と弾き飛ばすほどの蹴りが間近で放たれた筈なのに、自分が感じ取れたのは事後の風だけだ。葉佩は己の眼に自負を持っていたが、緋勇とアヌビスの衝突が起こるその前振りはおろか、衝撃の生まれる瞬間すら理解できなかった。
 だが、確かに緋勇の脚があれを、あの巨大な化け物の喉を穿ったのだ。
「まだだ、気を弛ませるなよ。― すぐにも起き上がるぞ、狙え」
 緋勇を振り仰いでいた視線を横へ薙ぐ。牙の隙間からねっとりとした液を滴らせ、獣の澱んだ濁り眼が葉佩たちを視ていた。黄ばんだ太い爪が石畳を掻き、骨の軋む濁音をものともせずにアヌビスは立ち上がる。ふらつく四肢を確りと突っ張りなおも闘攻の姿勢をとる。どれだけ痛めつけられようと、不屈。そもそも痛覚というものはないらしい。この様子では決定的なとどめをさすまで何度でも立ち上がるだろう。
 緋勇に問いを重ねるのは今ではない。今でなくともいい。なおも脳裏に蟠ろうとする混乱を葉佩は首を振って宥める。
「使え。お前が望むなら貸し与えよう」
 アヌビスを正視したまま、緋勇が己の銃を突き出す。
 葉佩は躊躇わなかった。
 己の所持していたマシンガンではなく、緋勇から与えられたハンドガンのほうを撰んだのだ。この部屋の広さと相手の図体の大きさを鑑みて、射程よりも威力を優先した。戦いとは如何にして早期決着を付けるかなのだから―。
「…《墓》を傷つける《墓守》には眠りを与える」
 黒光りする銃口で、葉佩はアヌビスの額を捉え静かに終りを宣告する。
 巨躯の犬は人語を解さないだろう。葉佩の告げた其の意味するところを理解することは無く、剥いた牙で空を噛む。今もなおこの砂漠の何処かに眠る主の骸へ何人たりとも近付けるなと、いにしえに下された命だけが、この番犬の全てなのだ。
「葉佩。お前は己をどちらと定義する。墓荒らしか、それとも宝探し屋か」
「後者」
 よどみなく。葉佩は答えた。
「ならば《墓》に何を示す」
「礼節を、― あの人はそう云った。その言葉を、その意思を、俺は継いだ」
 少なくとも緋勇にとって、葉佩のいう『あのひと』というのが何処の誰であるかは然したる問題ではなかった。葉佩の内に確固たるものを遺し、この少年が指針をさだめるその刹那に関与する、確かな事実に興味を持った。
 銃声が轟いた。
 アヌビスが吼える。頭部を振り回し、飛び散る腐肉をのたうつ爪が床に擦りつけた。
「そしてお前の示す礼儀は、其れなのだな」
 見遣る緋勇。鋼の黒き鉄槌。葉佩の振り下ろす決断の在り処。
「― 《墓》を荒らすべからず。ただ遺物の聲を聴き、識れ。古にうまれ遠遙をいき近代にのこるもの、其は敬意に価する。何故ならば古物とともに古人あり。ひと無くしてもの在らず。礼節を、と。…。だから俺はね、悪戯に騒ぎ《墓》を貶める存在に成り果てるのならばこうして銃を向ける。喩えそれが、― 守護者であっても」
「詭弁だな、少年。目醒めさせたのは己に他ならない」
 何の感情もない、ただ静かな声が傍らをよぎる。
「あんたより随分と子どもだけどね、自分の言ってることが単なる我儘とわからないわけじゃない。でも、」
「でも?」
「《墓》に何の礼儀もはらわない奴らがこの世には居るんだよ。腐るほどな」
「…」
「そんな奴らの血を呑んで、穢れを染ませていくのを俺はもっとも嫌悪する」

 立て続けに銃声が響いた。弾数の限界まで葉佩は撃ち続けた。弾が切れると葉佩は補充に及ばなかった。アヌビスの膝が折れるのを見たからだ。もはや機敏な動作はできはしまい。葉佩がベストに幾つもあるポケットの一つを開け、爆薬を取り出す。
 ピンを抜き放ち、化け物めがけて放った。
「顔伏せな!」
 緋勇が、失礼、と低く鋭い声とともにサラーの頭を伏せさせた。己の躰を楯に老人の身を上から覆う。ほぼ同時に爆音が遺跡の壁を揺るがした。吹き上がる砂と埃、爆風が三人の頬を掠めた。
 アヌビスの額から黒い体液と綯い交ぜに肉片が爆ぜ、ほとばしる。

 数秒後、肉塊が重い音をたてて床にくずおれた。
 その鈍い残響はながく壁の隅に蟠っていた。






― 九龍+黄龍本「皇砂のガレリア」(発行:彩ミドリ)より一部抜粋

本書における「このシーンが書きたかったんだよベスト3」に入るだろう場面(笑)を抜いてみました。

葉佩に、己の《力》の片鱗を垣間見せる陛下を書いてみたかったの……!


…そして葉佩が至極真っ当です。香り立つアロマの誘惑がないとこの男、こうも真人間だったのか。驚愕。
恋をすると人間という生きものはオカシクなるのだと思い知りました。おそるべしアロマの花嫁。さすが真・ヒロイン。(まあ、葉佩はわかってて惑わされてるんだろうけどな。恋もまた学校生活の華だ。←※いろいろ根本的に間違った意見を述べているのは承知しています)

ちなみにこれでだいたい4000字強です。ページにして10枚くらい。
全体量は50000字を超えました。…わー。
陛下(と、あのひと)に始り、陛下(と、あのひと)で終る話ですが、それはプロローグとエピローグ。こうしてちゃんと葉佩は出てますです。はい。


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