『……紅葉』 それは、まるで優しい風のように。
この、暑く気だるい空気の中、二人して歩く。
暑いなと、そう思わないわけでは決して無いが。
『………紅葉』
時折、柔らかい微笑みが向けられれば、それで。
ただ、それだけで。
「なんだい?」
「ん、ちょっとね?…名前、呼びたくなったの」
「そう」
「あ…怒った?」
「いや?」
怒っていないよと、ゆるりと首を振れば。
愛らしい笑みが、そこに広がるのだ。
「だけど、理由を聞いていいかな?」
少し、気になるんだと。
”じゃあ、聞いて!”
理由を聞かれた君はとても嬉しそうだった。
「こうしてね、紅葉と二人歩いているでしょ?」
「…ああ」
「紅葉と一緒だなあって、そう思うの」
「…うん」
「でね?」
またそこで、君はそっと微笑う。
「紅葉、って呼びたくなるの」
どう返せばいいのだろうか?
― そんな風に、壬生紅葉は少し考えた。顔は変わってはいなかったが。
理由になっていないよと、言えばいいのだろうか。
しかしそんなことを言えば、笑顔が消えてしまいそうだし。
かといって
嬉しいね、などというのは、少し見当違いな気もするし。
― 心の悩みは目に出るもの。
「あ、紅葉…困ってるね?」
「…いや、そんなことは」
「ダメだよ〜、わかるよ、うん」
くすくすと、ひとしきり笑われて。
どう、すればいいのかな…?
― さらに、壬生は困る。
「あのね」
そんな僕を見て、少し考え込む君。
「幸せな気持ちで、名前を呼んだら…相手も幸せに出来そうじゃない?」
少なくとも、呼んでいる私自身の幸せは紅葉に伝わるしね?―そう言って。
私は幸せだよ、と。
君は微笑う。
「…ああ、そうか」
「わかった?」
「うん、とてもね」
「…とても?」
「そう、とても」
幸せな気持ちで、相手の名を呼ぶと言うこと。
幸せな気持ちを、相手に伝えると言うこと。
だから、さきほどの自分は
― 幸せだな
と、思ったのだ。
「じゃあ、紅葉は幸せ?」
あえてその問いには答えずに
「-----」
耳元に口を寄せて、そっと囁けば
「え?え??な、いきなり何??」
真っ赤になって、戸惑う君がそこに。
今度は、僕がくすりと微笑う番だった。
「今、幸せかい?」
「え?」
「君の名前を呼んでみたけれど、君は幸せ?」
ややあって
「…うんッ」
頬を染めた君は、はにかんだ笑みを浮かべて答える。
僕は
そのキレイな瞳を覗き込んで、問いかける。
「じゃあ、僕が幸せかどうかもわかるよね?」
「うんッ!!!」
ただ、相手の名前を呼びたくなった。
ただ、それだけ。
けれどそれだけで
どれだけの幸せが得られるのだろう。
それはもう
限りなく。
『紅葉』
君が呼んでくれる名が
僕のものであったことを
毎回感謝しなくてはね。
― 優しい風は
今日もまた 変わらず優しく吹くのだ ―
Fin
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