+++「砂の聖書」



 耳に掠れる僅かな砂音に呼ばれれば、砂礫に佇む夢のはじまりだと視る者は知っている。

 もうこれで幾度目だろうかと心中に溜息を零して、彩りの無い砂の世界で御神槌は『其れ』に近付いた。

 この夢を視る度に『其れ』との距離が狭まっているようなのは自分の気のせいだろうかと、ふと後ろを振り返るも応える者はなく。

 自らに言い聞かせるが如く微かに首を振ると、御神槌は膝をつき祈りの姿をとった。

 何故なら『其れ』は聖書であり、夢想の中に唯一在るものはその聖書のみ。

 そして聖書があるならば、いずこかにおわす神へ祈りを捧げ心の安寧を請おうとしてしまうのは、例え夢であれ彼にとっては自然なことでしかなく。

 けれど、祈りの傍らでどうしても気になることがある。

 不思議なことに、開かれた其れは紙ではなく砂で出来た聖書であったから。

 ― いや…、そうではなくて、砂になったのか?

 ― 嗚呼、どうなのだろう。

 ― どうなの…だろう。

 触れれば音も無く霧散しそうな砂の聖書に手を伸ばそうとして出来ず、信じたりうるものであるはずなのに証明を恐れてしまう。

 時折見る不思議な夢に出てくる物は、― 砂の聖書だけ。

 出てくる人は、己だけ。

 他には何も。ただ砂礫が音を吸い込む世界。



 夢と現が混濁し始めれば砂の音が遠ざかり、見慣れた天井と壁がぼやけた視界に映る。眠りの浅い御神槌でも中途な目覚めに気だるく寝返りを打った。

 ― 夢見は時に心理を現すと聞く。

 ― ならば『あれ』は何だというのだ…。

 夜の静けさの中に答えは無く、また己の中にも見出せないことが、辛い。

 神は手助けをしてくれているだけで、けして御自ら御神槌を救ってはくれないのだ。

 人はひとの内にしか答えを求められない問題があるのだということを、知る。

 そうして今宵も、夜が明けた。



 それでも、御神槌の生活に狂いが生じることはなく。

 村の其処此処を覆う薄靄の中で鳥に餌をやり、啄ばむ仕草を楽しんでから礼拝堂の戸口を開き内から外へと掃除を始める。

 箒が地面を掠める音は規則正しく、けれど、時々ふっと動きが途絶えるのは移動するための間ではなく、物憂げに十字架を眺めるから。

 だけれども、無駄にぼうっとしているわけではなく。

 「…お早いことですね?」

 背中に感じた視線の方へ向き直り誰何の声をかけようとして、扉の影に見え隠れする服地の色合いには憶えがあったものだから。

 くすりと微笑う。

 「おはようございます、雪花さん。隠れる理由が特におありでないのなら、顔を見せてくだされば嬉しいですよ」

 「…わかってしまった?あの、おはようございます御神槌様。……お邪魔かなと思ったのだけれど、どうしてるのか気になって、それで」

 扉に手をかけ、顔だけをひかえめに覗かせるのは、いまだ御神槌に遠慮しているからなのだろう。

 そんなことは無いのにと言ったところで効果は薄い相手をどう扱えばと考えをめぐらせ、ふと、夢見を話してみようかと思い立つ。

 「気にかけていただけるのはとても喜ばしいことですよ。…ああ、そうだ。お時間があるなら暫しお付き合い願いたいのですが、少々私の話を聞いては頂けませんか」

 …其れは驚くほど容易く。

 此方へ、と手招くに惹きこまれ、礼拝堂に並ぶ長椅子の一角に隣り合う少女は頼まれごとに実に素直だ。

 「本当に、私で良いの?」

 小首を傾げて見上げてくるのに微笑んで、しかし御神槌はどこか寂しげな風情を漂わせた。

 「御神槌様…」

 心配げな色合いを濃くする声音に、慌てて表情を取り繕う。

 「不思議なものを、見るんですよ。床の中でまどろんでいると、其れは夢に出るのです」

 「ええと…。其れは、こわいもの??」

 「いえ、怖くはありません」

 「…こわくはないのね、良かった」

 おそらく以前の御神槌を想ってのことなのだろう、安堵の笑みを浮かべる少女に、御神槌は細い目をたわませて頷いた。

 「けれど、意味がうまく掴めない。在るのは、砂の聖書なのです」

 「…砂の、聖書?」

 「はい」

 自らに言い含めるように頷き、御神槌は続ける。

 「その聖書は、砂なのです。元来砂で出来ているのか後に砂になってしまったのかは、わからないのですが…砂、なのですよ。ぼろぼろになり朽ちかけた聖書は少しずつ風に舞い上げられ、黄砂に埋もれかけている。消えゆく、その過程でしょう」

 「本当に?」

 「……はい?あの、仰る意味を詳しく言って頂けませんか。本当、とは何ですか?」

 「あのね。本当に、消えてしまっていたの?……教えは何もかも、聖書からは消えてしまっていたの?すべては朽ちて、もたらされる滅びをただ待っていただけ?」

 ― 開かれた砂の聖書。

 「…聖書は閉じてはいませんでした。開かれた姿で、其処に在ったのです」

 ― 掠れた文字が見える。

 「其れで、確かに、文字が、」

 急にはっきりとした夢の映像に、言葉が詰まる。

 けれど、見上げてくる娘は気分を害した風も無くゆるやかに頷いて。

 良かった、と囁いた。

 「御神槌様は、ちゃんと見えていたのね?」

 「…はい。でも、どうして思い出せずに居たのでしょう…」

 「きっとね、思い出せるかどうかがまず大事なことだったの」

 「思い出せるかどうかが?」

 「そう。たぶん、その夢は御神槌様にとって大切なことをたくさん含んでいる夢なのね。だから、すこしずつ解かってあげないと先が見えないの。一度に受け止められる量が決まっているみたいで、辿り着くのが難しい夢ね」

 雪花は知っている。目を開けて見なくては悩み苦しむだけの夢が時折あることを。

 けれども、明かされるたびに其れがもたらす泣きたくなるようなうつくしさもまた知っている。

 「…本当に、難しい夢のようです。もう幾夜も見てきたのに、今朝漸く此処まで来た」

 「でも、もう大丈夫ね?だって、直ぐ其処まで思い出しているのだもの」

 「ええ、仰る通りです」

 「…ね、何と書いてあったの?」

 「其処には…そう、確か…」

 取りこぼしたくないという思いからか、我知らず片手が頭を押さえ込む。

 ― 初--に--葉が----た。

 「初めに、言葉があった」

 うっすらと被っていた砂が払い落とされていくかのように、一文字また一文字と聖書の文字が明るくなってゆく不思議さなど気にもならなかった。ただ先が知りたくて、懸命に文字を追う。

 ― --葉--神と----あ--た。

 「言葉は…神と共にあった」

 ― 言葉は--であった。

 「…言葉は、神であった」



 ならば彼にとって意味するところは

 ― 初めに神ありき

 そして其れは、消えずに残っている。



 彼は、辿り着いた。


 瞠目し、はっと息を呑んだ御神槌は唇を震わせた。

 初めに神ありき、と。

 確かめることを恐れた聖書に漸く指が触れ、そっと砂を払い落として現れたその一節。

 「…あれは、ヨハネの福音書です。初めに言葉があり、言葉は神とともにあり、即ち言葉は神であったのだと。……ならば、そう。『初めに神ありき』という意味を、持つのです」

 一言ひとこと噛み締めるように、誰にともなく言い聞かせ。

 そっと隣を見遣れば、紫珱の瞳が静かな瞬きを織り交ぜてすべてをやさしく受け止めて其処にあったことに、例えようの無い喜びが胸に染みた。

 「御神槌様には、神様が最初から居たのね?…そして其れはきっと、いつまでも消えないことなの。あらゆるすべてが砂礫と化しても、其れだけは残っていたから」

 ああ…。喉から零れ落ちた声は、どこか嗚咽にも似た響きを持っていた。

 「そう…でしょうか…」

 わからない、と囁きが返る。

 御神槌の両頬を包み込むように、そっと伸ばされた指は、けれど肌に触れるか触れないかで留まるを、御神槌が彼自身の手で覆い、頬に当てた。

 仄かに伝わるぬくもりは、動じた風も無く其処に在り続ける。

 「私には、わからない」

 形は拒否を取っていても、声音はひどくやさしかった。

 「…御神槌様にしか、わからないと思うの。……ごめんなさい、物は言えても、私には御神槌様の望む答えは出せない。私はわたしで、御神槌様ではないから」

 「………いいえ、貴方は悪くは無い。…私も、そう思いますよ。私が見た夢なのだから、他者が、…たとえ其れが神であったとしても、出してくれた答えはあくまでも意見にしかなりえません。…でも」

 「…?」

 「雪花さん。貴方がくれたものは私にとって答えでもなく意見でもなく、天使の羽です。枕もとに落ちていてくれて、本当に良かった…」

 御神槌は素直に例を述べ精一杯誉めたつもりであったが、ぱちぱち不思議そうに目を瞬かせる雪花は、思っていたどの反応とも違うもので。

 「…あの、どうかなさいましたか?」

 「ぇ?…え?あの、ええと…??天子様に羽なんてついて…とても偉い人だから見たことは無いけれど…でも…んー」

 「私の言う天使とは、天の子と書き其の意味を天皇と指すものではないですよ。残念ですが、まず漢字が違います」

 「ご、ごめんなさい!私、勘違いしていたのね?それじゃあ、御神槌様のいう『てんし』はどういうものなの?其れに、その羽が落ちているのは良いこと?」

 ふふっと微笑うのは、いつもの御神槌で。

 「わからなくて良いですよ。寧ろ、わからないままで居てほしいかもしれません」

 「…教えてはくれないの?」

 「そういうわけではありませんが」

 「じゃあ、何故?」

 「雪花さん」

 「はいっ」

 「…じき、朝餉のお時間ですよ。そろそろお屋敷に戻られた方が良いですね」

 「あ…っ。で、でもでも、聞きたいの」

 「其れは、また今度ということで。さ、早く。皆さんに心配をおかけするのはいけません」

 ちいさく口を尖らせるのを宥め、いっかな方向を変えない身体は肩を持ってやさしく動かしてやる。

 「……ぜったい、いつか教えてくれるのよね?」

 肩を抑えられているので、首だけを動かして懸命に伝え置こうとする様が愛らしくて。

 仕方がありませんねと零れた息は、心地良い敗北感。

 「はい、神の御名においてお約束しますよ」

 「…ん。じゃあ、またね?」

 確約を得たのが嬉しいのだろう、満足げにふわりと微笑って、雪花は漸く退出を決めたよう。

 絶対、ね?と最後の念押しは忘れずに。

 差し込む陽光が奥の方までほんのり拡がり始めた礼拝堂は、いつになくあたたかで。

 けれど。見送って一人佇む彼は、其れが陽の光を受けて肌が感じるものだけではないことを、己が内から感じるあたたかみに知る。



 …其の後も時折、砂の聖書は夢見たけれど。もう其れは彼にとって意味を図りかねる不思議なものではなく、生涯付き合って然るべき意味を見出した世に一つの聖書。

 


+++終。 

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外法帖SS第八弾です。…づっちー。


御神槌、お誕生日おめでとーう!形だけでも祝ってあげられているのか

不安ではありますが、ちょこちょこ書いてみました。…うーん、無神論者

な人間が切支丹の心境をうまく推し量れるとは思っていないので、私の

書く御神槌は、たぶん結構な偽者具合だと思います。…ごめんなさい。



◆◇◆

「砂の聖書」。これは、日本各地の幾つかの美術館に所蔵されている
荒木高子さんという方の創られた美術作品です。とあるところで見る機
会に恵まれまして、見た瞬間に『御神槌の世界だ!』と妙な確信を覚え
てしまったのですよ!(笑)陶製の作品なのですが、「砂の聖書」以外に
も「岩の聖書」などなど『聖書シリーズ』として製作を続けられています。

それら全部をいつか見れたら良いなあと思うくらい、惚れちゃいました。

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