文字書きさんに100のお題[046.名前]

+++「望楼より君を呼ぶ」



 此処は江戸北里、如月骨董品店。
 店主の奈涸は算盤を軽やかに弾きながら、店の中でささやかに立てられる物音に耳を澄ませていた。
 かたことと遊ぶ木箱の蓋が。しゅるりと擦れる、掛軸が。あちこちで上がるそれらに、まるで耳がくすぐられるかのよう。
 ちなみにそれらは怪奇現象でも何でもなく。奈涸の良い得意先であるあの村の、お使いの帰りに寄ってくれた少女が起こす物音。
 どうやら今回、奈涸の妹に用があったようだが、涼浬は今外出中だと伝えると、折角だから待つと言い、手持ち無沙汰が気になるのだと少々乱雑になっていた店内を片付けながらのこと。
 ― 帰りましたら、少し片しますので。これ以上散らかさぬようご留意いただければ幸いです。
 妹の、出掛けに言い置かれたことがそっと耳をよぎる。良く言われるが守れたためしの無い言いつけ、しかし今回は守れそうだ。
 後でお礼に菓子でも出さなくてはねと笑んで。…ふと、奈涸は思いつく。
 ― 彼女の名前は雪花というから。
 「ねえ、雪君?」
 「はいっ。…?…ぇ?…え??あの、いま…何と言った?」
 元気良く返事をし、次に戸惑い、ややあってほわっと頬を染め。
 いつもは自分と対等に、もしかしたら自分より立場の強い少女が、いとも容易くおろおろしている。
 その様に、嗚呼楽しいとでも言いたげに奈涸はくすりと微笑んだ。
 「女の子の名前にね?君付けをしたら可愛いかといってみたんだが。…思った通りだ」
 おいで、と手招かれて。気恥ずかしさに眉を顰め当惑する面持ちで番台に近寄ってきた雪花は縋るような眼差しを奈涸に向けるけれども。悪戯な笑みは口元からひかず其処に在り続ける。
 「其れはその、今だけの冗談でしたことなのよね?」
 「…そうだねぇ…どうしようか、『雪君』?……やめた方が」
 そこはかとない同意を求める視線に、雪花は慌ててぷるぷると首を振ったのだけれど。
 慌てるあまり、どうしようか?のあたりで振ってしまったのだ。…横に。
 「…おや。今、横に首を振ったね?ということは、やめてくれない方が良い、と」
 違うの、と言いかけた雪花は、でも。ふいに伸びてきた奈涸の手が、ぽふりとやさしく頭に触れるのに頃合を逃してしまい。
 「そう。じゃあ決まりだ。君もやめて欲しくないようだから」
 「…っ……ふぇ」
 後はもう言葉もなく。
 「可愛いんだから、おとなしく呼ばれておきなさい」
 あやすような物言いに、ただただ恥ずかしげに項垂れる姿があったとか。
 …補足しておくなら。彼女はその言われ様が嫌だというわけでは、けしてなかったのだけれど。
 ただ、奈涸の囁いた響きがどうにも面映く、困ってしまったのだ。
 言ってしまえば、照れていたということ。


 と、静かに店の表戸がひかれ。
 からんと土間に響くは涼浬の下駄。
 「…ああ、雪花殿いらっしゃいませ、来られていたのですね。もしそうと存じ上げていましたら今少し早く……?…兄上、さては何かいたしましたでしょう」
 雪花の姿を認め、嬉しそうに声音を和ませたのも束の間。振り向いた其の表情に、涼浬は片眉を僅かに吊り上げて己の兄を見据えた。
 「すずり」
 つかつかと歩を進め、少女の躰に腕を絡めて己に引き寄せる涼浬に少々驚きつつも、その腕のあたたかさに雪花はほっと力を抜く。
 「なんとも酷い云われようだな。別に何もしていないのに。…ただ、呼び名をちょっとね?」
 「…呼び名?」
 「うん。― 雪君」
 涼浬の腕の中、ちいさく声が震える。
 「つまりはこういうことだよ」
 ほらね、と悪戯げに微笑う奈涸。
 「…珍しいものを見ました」
 ですが、と一つ咳き込んで、続ける。
 「あまり苛められませぬよう。……けれども其の呼び名、私も大層可愛らしいと思いますから、そうきつくも申しませんが」
 少し下方から咎めるような縋るような眼差しを感じたが、此れは滅多に無い機会だと思えたらしく、涼浬もやけに強気で対応したようで。
 「……如月の兄様も、涼浬も、今日はなんだかとっても意地悪さんね」
 「「それほどでも」」
 どこか拗ねた口調に咎められた二人は、良く似て秀麗な面立ちを揃え異口同音。
 言い募ろうと開きかけた雪花の唇は、けれど言葉を捜しあぐねてためらう。
 …やんわりとでは、あるけれど。言ってしまえば気圧されたか、所在なげにおとなしく黙らされてしまった。
 2対1は、やや分が悪かったよう。
 「…ああこの際だし、涼浬も呼び名を改めたらどうかな」
 「私が、ですか?」
 「そう。だってほら、いつまでも『雪花殿』はないと思わないかい?」
 聞いていて堅苦しいよと。わざと大仰に眉を顰める奈涸。
 はあ、と一つ涼浬は頷いて。
 「…それも、そうですね」
 「うん、ご理解頂けて嬉しいね。さてどうする?」
 「― でしたら、雪…」
 言いかけつつ、己が腕におさまる少女を見遣れば愛らしく唸られたものだから、涼浬はやさしく微笑って。
 「…さん?と、お呼びして宜しいでしょうか」
 すこし悪戯な響きをにじませて、そう言った。
 「……我が妹は欲が無いね」
 「兄上が先手をお打ちになられていなければ、私とてもう少しやりようもございました。…けれど」
 ― あまり苛めて嫌われでもしたら大変ですから。
 いつ見ても指通りの良さそうな雪花の髪をやさしく手梳きながら、そう囁いて。
 だから奈涸は苦笑を深めて、咎めるような物言いをするのだ。
 苛めてなどいないと言っているのにね? ― と。

 さてそれから暫くというものの。
 主には内藤新宿に王子に鬼哭村、しかして江戸の至るところで、涼やかな声が君付けでとある名を呼ぶたびに、ちいさく声があがったのだとか。
 言わずもがな、そのやり取りにおいては呼ぶ者はさして驚かず、周囲の耳目をこそ集めたとのこと。



 幾日か日は過ぎて、また如月骨董品店。
 しかし、この日は普段とやや趣きが違った。と言うのも、静寂が好まれる場所柄とは到底思えない騒々しさが在ったので。
 左手に持った紙を見ながら、そこに書き付けられた品物を棚下ろしする奈涸に、指を突きつけて喚きたてるは風祭。おそらくは村の所用で立ち寄っただろうに、そのような目的を露とも感じさせぬ剣幕。
 「おい、テメェ奈涸聞いてんのか!!ゆんゆんなぁ、お前が何か言うたんびに五月蝿ェんだよ。その呼び方やめろ!…そのっ、何だ!嫌がられてんじゃねェのかよ!?」
 耳に障るけたたましい抗議はしかし、虚しく空回る。謂れの無い迫害は御免被るよとでも言いたげに、奈涸は手を止めることなく億劫な溜息をひとつ吐くだけだ。
 「…心外だな。俺はちゃんとそう呼んで良いか訊いたし、然したる否定も無かったが?…それにね、あれは嫌がっているというよりは単に恥じらっているだけだよ。本当に嫌がられているならば、俺とて無理には通さん」
 「なっ…う、嘘言ってんじゃねェ!!」
 「嘘ではないよ。どうしてそんなに突っかかる……嗚呼、成る程そうか」
 ふむ。したり顔で頷く奈涸に、風祭が更なる逆上を見せないわけは無く、見事なまでに一気に眉が攣りあがる。どうも相手の言動はやたらと神経を逆撫でするようなのだ。
 「ああ!?何を勝手に納得してんだッそこ!」
 「…いや何。……君のやきもちの焼き方は解かり易いなと思っただけのことだよ」
 「ばッ…莫迦言うな!んなもん焼くわけねェだろ!!!!」
 と言いつつも、相手に突きつけた指が何故か動揺でわなわな震えている。横目でちらりと其れを盗み見て、内心得たりと頷く奈涸ではあったが、あくまで表立っては平生そのもの。
 「そうかい?間違っているはずは無いんだがな。…まあいい、彼女をどう呼ぶかはお互い様なのだから、不毛な喧嘩はよそうじゃないか」
 ― その証拠にほら、君は村の誰もが使わないような呼び名でもって彼女を呼んでいるだろう。
 さらっと突きつけられた事実。
 其れに、ぐ、と詰まる風祭。自分でも薄々解かってはいるらしかった。
 「おおかた君のことだ、『おい、とかお前、とかで呼ぶよりはいいんだろっ』とでもごねて彼女から了承を得たのだろう?」
 更に問い詰められ、ぎくりと身を強ばらせれば、…意に反して脳裏にありありと甦る記憶だ。

 『…苗字で呼ぶたんびに鬱陶しい顔されんのもかったりいしな。よし。じゃあお前は今日からゆんゆんなっ!どーだ、コレで文句ねェだろ。苗字でもねぇし、おい、とかお前、とかでもないんだからなっ』
 『うんっ。とてもかわいいから、私は嬉しい』
 『…ばっかじゃねェの、俺に気ィ使うなよ気持ちわりィ。いっそ文句の一つでも言われた方がまだましだぜ』
 『? 澳ちゃんが考えてくれたのだから、本当に嬉しいと思ったの。…其れで呼んでくれるのよね?本当ね?』
 『ああまあなっ。…ったく、ほんっっっと、おめでたいヤツだな』

 いつだったか、そのようなやり取りが確かにあったのを思い出す。
 「………ぅっ…」
 「その様子だとやはり、か。どうやらまるっきり外れというわけでもなさそうだな。…寧ろ当たったか?」
 棚や引出しから取り出したものを今一度確かめつつ涼しい一瞥をくれるならば、其れで漸く、はたと気付く相手だ。態度を取り繕いもしないあたりには、ふ、と微笑うしかない。
 勿論、その笑みには風祭の歯軋りが応えたのだけれど。
 ― なんでこいつに解かるんだ…っ。
 指摘されて思い出す過去には反論しようも無く、だけれども心中の声をあらわすわけにもいかず。結局虚しく唸るだけの風祭に、ぐいっっと風呂敷包みが突きつけられる。
 「さあ話は終わりだ。用事も済んだのだし、今日のところはお引取り願おうか」
 …包み越しに見えた顔は、嫌味なくらいに笑顔だった。
 俺はやっぱりこいつが嫌いだと、あらためて思う風祭ではあったのだが。
 哀しいかな、言い返す気概も悉く奪われ果てにはすげなく追い払われてしまったのだった。…こののち、輪をかけて風祭は奈涸を避けることになったとか。



 怒気を孕むも露わに、苛々と人並みを分け入っていたかと思えば、途端に唐草模様の包みをぶら下げて、珍しくしおしおと辻で立ち止まる風祭。
 そして追い討ちをかけるように腹の虫が一鳴り。
 「…なんか喰ってくか」
 誰にともなく呟いて、あたりを物色しかけた風祭に忍び寄る気配。
 気付き、咄嗟に半身を翻して蹴りの一発でもと構えるよりも速く、白い腕がふわりと風祭に絡み、やんわり羽交い絞めにされる。澳ちゃん、と囁く憶えある声音に、些か対応が遅れてしまったのが敗因の模様。
 「のわぁッ!?やめろ、は、放しやがれーッ」
 「つかまえた」
 「俺は猫の子じゃねェんだから、ほいほい捕まえんなッ!いいからとっととッ、放せって、のっ」
 必死に喚き、軽く圧し掛かる重みを剥がそうと抵抗する風祭をよそに、実に嬉しそうなのは、そう、雪花だ。
 唯一、風祭をふいに抱きしめることが出来る者かもしれない。
 何しろ『坊に噛みつかれんでそないなことが出来はるんか?大層なもんや』いつぞやはそう們天丸も褒めそやしたほどだから。あの壬生霜葉も隣で言葉すくなに静かに感嘆していたとかいないとか。
 とはいえ、風祭に対しそうしようと思うこと自体がまず珍しいのもあるけれど。
 「だー!! 離れろって言ってんだろ!?」
 散々に吼えられひどく惜しげに手をひく少女は、いつもそうするように。
 「…残念」
 また逃げられてしまったと、ちいさく微笑う。けれど今日は僅かばかり、さみしげにやさしく。
 お前はいつも気遣いが薄いと苦笑しながらの九桐に諭される風祭も、流石に気付こうか。呼吸を整えつつ仔細を窺うなら、視線がするりと交わる。
 「なあに?」
 「…べっつに。で、何の用だよ?」
 「ん、澳ちゃんね、すこし元気が無いなって思ったの。だからね、声をかけてみた」
 それだけだと、そっと微笑い。
 「…腹減らねェか」
 「ぇ?」
 「だからっ、…腹減ってねェかって聞いてんだよ」
 「すこし、小腹はすいているかも」
 「よし、じゃあ付き合え。俺に構うくらいなんだ、どうせ暇なんだろ」
 高慢な物言いに、けれど雪花は気分を害した風も無い。誘われたのだと、その事実が嬉しさに。
 「そうね、とても暇」
 …本当は、些か違う。
 『一人で骨董屋へ行かせたら、決まって腹立ててんのさ。拗ねてほっつき歩いてる坊やをなだめて連れといで』と言い付かって出てきたから。ただしくは、暇かと聞いた者にこそ彼女は用があるのだ。
 けれども、そのような細かいことなど言わぬが花。連れて帰るのは、落ち着かせてからで良いのだから結局のところ何ひとつ変わらないのだ。
 其れに、と雪花は連れに気取られぬよう口元をゆるく笑ませる。
 ― 言うと、きっと澳ちゃんは怒るもの。
 ひそやかに納得して、ひとり今を嬉しく想っていたのだけれど。
 「…なあ、お前さ」
 言いにくそうに、ちろっと見てくるのを認めて、雪花は小首を傾げて先を促す。
 「骨董屋にどう呼ばれても、自分からは何もいわねェよな。いちいち五月蝿ェけど、ほんとは気にいってんのか?アレ」
 実のところはどうなのだと訊ねる口ぶりに、問われた方はゆるく空を見上げて。
 「本当言えばね、…とても。だって、そのひとが私を想って呼んでくれるのは、嬉しいことだから」
 ― ただちょっと…如月の兄様のは、慣れるまでが難しい響きね。
 そう少し恥ずかしげに呟かれるのが訊ねた者を口惜しいと思わせるのは何故か。…もちろんながら、風祭に解かる類のことではないのだけれど。
 ややむすっとしてしまっているのを、だいじょうぶ、とあやす声。
 「如月の兄様ったらすこぅし意地悪だから。ひとをからかって微笑うの。でも澳ちゃんのはね、そうではなかったから。…すぐ、慣れてしまった」
 戸惑いなどはなかったのだと。
 心をくるまれそうなほど、やさしい物言い。
 ― これに、惹かれてはいけない。
 「…あ。もしかして、気遣ってくれていた?」
 「んなわけねェだろ!…あー、気分が萎えた。喰うのはやめだ、やめ。さっさと帰るぞ、ゆんゆんッ」
 もしや心配をと詫びるのを遮り、歩調を速めて帰路を急ぐ。
 ― これに、惹かれてはいけないのだ。
 わかってはいるのに、何故だろう。勝手に踵を返しても、咎めることなく追い、隣で
 『うん、じゃあ帰ろう』
 …雑踏に溶け込むようで、その実、話し掛けられた者の耳にこそなじむ声音でそう囁くを、風祭はどうしても跳ね除けられないのだ。
 ああいっそのこと。
 ……特別な名なぞ与えないままでいれば良かったか。


 風祭がそう吐露する一方で、彼が去った後の店に佇む主人は言い損ねたとばかりに苦笑雑じりの嘆息ひとつ。
 「呼び名というのは、まこと呼びよせるためにこそ与えるものなのだよ。でないと、…いつまでたっても傍近くには寄って貰えないのだから」
 ― はて。其処の辺り俺と君は似ていると思うのだが、ああも嫌われるのは何故なのかな。
 そう苦笑いながら、とうに去った者に話し掛けるように一人ごちていたのは此処だけの話。



 …君を呼ぶ、その意味するところはいまだ花霞のとおくとおく向こう。

 


+++終。 

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外法帖SS第九弾です。あまり時代考証をせずに済むよう書く姑息さ加減。(笑)


兄さん強ッ!(爆笑)なぜだ、何故うちの兄さんはこんなに強いのだ…!!!!
完全独走態勢です。こうなってくると御屋形様の天敵は奈涸兄さんということに。

……そうなの?(自問)<ちがうよ、かざまつりのてんてきがにいさんなんだよ。

…や、其れはさておき。雪花ちゃんのことを『雪君』と呼びたいなあと思いまして
のこのお話です。すごく可愛らしい響きだと思うのですよー、オンナノコに君付け
というのは。で、其れがしてみたくて、じゃあ誰がそう言うのだとなると、奈涸兄
さんが丁度、好感度が高くなると龍斗を『龍君』と呼ぶのを思い出しまして。コレ
だ!と思いましたねー、はいっ。そういうわけで、兄さんは今後、雪花ちゃんのコ
トを『雪君』と呼びます。じき、彼女の方も慣れてくれると思いますv(た、たぶん)


◆◇◆
『望楼』―遠方をのぞむたかどの。遠き君を、僕は呼ぶ。…なんて言ってみたり。

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