+++「幽けし聖園(かそけしみその)」



 実に久しぶりに東京の地に降り立った龍蔵院は、記憶の片隅に残る公園の敷地へ足を踏み入れた。サングラスの隙間に見える木漏れ日に軽く眉を顰めつつ、さきほど雑踏の中で嗅いだ様々な香水の香りを少し思い出す。それなりに放蕩生活をしてきた名残で、今まで色んな女と話し、すれ違ってきた彼だが…其の大部分は、忘れた。

 ―いや、そもそも覚えようなんざ思っていなかったってことだがな。脳裏に焼きつくほどイイ女は、滅多に居ない。

 …だがそんな龍蔵院の内には、もう十何年も昔だというのに、迷惑なまでに鮮明に、漂わせていた匂いすら思い出せる女が一人居る。何かに踊らされるように、惹かれるように、導かれるように、一人の男の元に集った奴らの中に、その女は居た。

 女は名を、迦代と言った。龍蔵院が”あの女”と呼ぶ迦代と共有した数少ない年月の中、最初に思い出すのはやはり、あの時のことだ。

 「俺は、アンタが嫌いだな」

 ―あの女に面と向かって初めて言い放ったのは何時だったろう?出逢ってすぐの頃だった気がするが。

 眇め見た視線の先で艶やかな黒髪をさらさら揺らす女。

 当然のように弦麻のすぐ傍に寄り添う女のことを、どうしても好きになれなかったのが理由だったような…そうでないような。ただそう、…嫌いだったのだ。

 つまりは、明確な嫌悪の理由なぞ何処にも有りはしなかったのではなかろうか。

 「あら、奇遇ね?私も、貴方のことが好きではないわ」

 にこやかに笑うその顔が、とてつもなく気に入らなかった。

 いつもいつもいつも、いやに気に障る其の笑みがどうしても好きになれなかった。

 「第一、人の名前をろくに呼ばないのだもの」

 「じゃあ聞くが。俺に迦代サン、なんて呼ばれて懐かれるのが嬉しいか?」

 殊更憎々しげに言い放ち、反応を見る。

 女は、一旦笑みを引っ込め、小首を傾げて考え込む。

 「……そうね、嬉しがる私なんて想像もつかないわ」

 「だったら、文句なんざ言うなよ」

 「ごめんなさい」

 吐き捨てるように言った龍蔵院に再び女は笑んだ。…男は、ちっとも詫びていない笑顔だと思った。


 以来、あの女を名で呼んだことは龍蔵院の記憶に殆ど無い。呼んだとしても、良い感情が篭もっていたことは一度としてなかったろうと、思う。



 …そうして次に思い出すのは、逗留していた村近くで闇の眷属とやりあったあの時か。

 「ねぇ、鉄洲君」

 「…」

 そう。神夷と共にその場を一足早く立ち去ろうとしていた龍蔵院を、弦麻と二言三言話した女が名を呼び近寄ってきたのは内心追い払いたかったが、あの人の手前そうも出来ず。結局神夷は先にゆき、女と二人きりで話す羽目になってしまった時のことだ。

 「貴方、結構強いわね?」

 「じゃなかったら、弦麻サンたちと一緒に居れるもんか」

 喧嘩を売られたら買う、そんな姿勢で噛み付いても、女はたおやかな表情を崩さない。

 「そう。…でも、私はまだ、貴方を羨ましいとは思わないのよ」

 「はぁ?」

 「私は、貴方と同じようには弦麻と共に戦えないけれど。でも、貴方のことを羨ましいなんて思っていないわ。だって、私にしか見ることの出来ない弦麻が居るのだもの。貴方には決して見れない弦麻が。…ねえ、其れは貴方にとって悔しいかしら?だったら、とても嬉しいのだけれど。私の思惑は見事に成功しているということだから」

 唇に掃いたように浮かぶうつくしい微笑みは、ひどく癪に障った。

 「…馬鹿馬鹿しい、一体何言ってんだか。やっぱり俺は、アンタが嫌いだな」

 心の奥底から湧き上がってくるどす黒い感情は、得体の知れない別の感情と綯い交ぜになり、どう形容していいのかも分からなかった。

 それらと切り離されたくて、龍蔵院は踵を返し、女に背を向けた。

 「悔しかったら、私を羨ましがらせてごらんなさい。貴方しか見ることの適わぬ弦麻を、もっともっと追いかけなさい。…其れが、共に在ることを許された者の務めよ」

 凛とした声が容赦無く覆い被さったが、龍蔵院は振り返らなかった。

 …いや、振り返れなかったと言ったほうが正しいのだろう。歯噛みする顔を見られたくは無かったのだ。

 そうして、男はますますその女が嫌いになった。



 事あるごとに噛み付いたし、かまわれると振り払った。

 ただ女を見返してやりたい一心で、共に居たような気さえする。

 「貴方は、もっと強く在れるはずよ。…いいえ、強く在らなければいけない。あの人と生きてゆくとは、そういうことよ」

 平然と言い放つ女を黙らせたかったのだと、思う。

 だが、女はいつも龍蔵院の前に悠然と居た。視えないものを視る瞳で彼の内を探り、常に煽る。

 求められる理想、望まれる姿は、ただただ高く。

 引き上げられようとしていたのは、どのような高みだったのだろう。

 …其れがおぼろげに分かったのは、全てが終わってしまった後だったが。

 岩壁にちらつく女の顔は、毅然としていた。

 『…それでも、貴方は生きてゆくのでしょう?…いいえ、生きてゆかねばならないのよ。共に在ることを許された者として』

 聴こえた幻聴は、女が常世に旅立つ前に呟いた言葉に似ていた。あの女は、何を知っていたのだろう。何を、伝えようとしていたのだろう。

 知るには、あまりに痛い。

 「やっぱり、俺はアンタが…」

 その後に続けたのは、何だったろうか。其の時女のことをどう想ったのか、何を呟いたか。

 其れは…―――――





 広い園内をあてどなく彷徨い、断片的に昔日を思い返していた龍蔵院は、其の辺りまで来たところで過去を放り投げようと軽く頭を振り、けれども意識は旧き想い出を追いかける。

 龍蔵院曰く”あの女”が、そして”あの人”―この上なく慕った男が、突然に姿を消した日は遥か遠く。

 天の星を呪った夜も、気がつけば朝になり。

 時は、いつしか容赦無く過ぎた。

 なのに今だに想うのは、焦がれていたという事実があったからだろうと。流れる年月はそう諭す。

 ―仕方ない、認めてやるさ。

 「…まったく、イイ女だったなァ」

 永い歳月を経て、あれは最高の女だったのだと認めた。当時、どうしてあれほどまでに嫌い抜いたのか、今となれば其の理由は分からないわけではない。若気の至り、ただ其れだけなどでは無いことくらい、嫌になるほど承知している。嫌いになることで、何かに蓋をしたのだと。― …ふと、わかってしまった。

 「……残念だ」

 ―あの人があの女を選んだのが宿星の一環だったとしても。俺があの女を選ばなかったのもまたそうだったとしても。

 それでも想うのは、喪ったことへの罪であり、手に入れられなかったものへの渇望なのかもしれない。…あるいは、同じくして「ひとではない」者を懐古するからなのだろう。

 懺悔にも似た呟きは、そよぐ風にも消えるほど儚く。其れを打ち消すかのように苦く微笑うと、肩にもたせ掛けるようにして持っていた槍の包みを軽く担ぎなおす。

 「よォ、うるせぇオッサン。目立つカッコで俺らのシマうろついてんじゃねェよ」

 「…あァ?誰がおっさんだ。甚だ不本意だな」

 すぐ後ろから投げつけられた不躾な声に、緩く進めていた歩を止め振り返れば、身体の動きに若干遅れてなびいた髪の隙間に複数の男が立っているのが見えた。

 ―ごろつきどもが。

 サングラス越しに冷めた眼つきで見たのがわかるのかどうか、手に持つ金属バットやナイフやらがいきり立つ。

 「アンタに決まってんだろうがッ!目障りなんだよなァ、俺ら機嫌悪いんで、ちっと相手してくれや」

 自身の出で立ちがこういう輩の気に障るらしいことは長年の経験で嫌というほどわかっている。そして、彼らのような者たち―龍蔵院曰く”愚か者”―が辿る末路すらも見当がつく。

 …なものだから、ねめつける視線を軽く流し、龍蔵院は遠慮無くせせら笑った。

 「はっ、相手ねェ……?俺に喧嘩を売るならやめときな…怪我するぜ」

 言うや一斉に上がるブーイングを五月蝿そうに手で払う真似をする。

 「なァ、俺が白いスーツ着てるのが何でだか分かるか?…滅多なことじゃ服なんざ汚されねェからだぞ」

 「えっらそうに……伊達に決まってんだろが」

 「偉いかどうか、伊達かどうか、…そんな言い分は、やってから言うんだな。お前らに汚せるかどうか怪しいもんだが」

 ふ、と低く微笑う声音は、発した本人以外の耳にはひどくざらついた。無論、龍蔵院はあくまでそのつもりで微笑ったわけなのだが。

 「うざってぇ…ッ。とっとと泥まみれにしてやらぁ!!」

 「いいぜ、かかってきな…。面倒だが、たっての御望みとあらば沈めてやるさ」

 かけていたサングラスを外し、すぐさま、手頃なごろつきを叩きのめして持っていた鉄パイプを奪い取る。

 「お前ら如きに大事な得物を使うのは勿体無いんでな。コレで我慢してくれ」

 ―何も持っていない弦麻は強いけれど。長物を持った貴方もそれなりに強いわね。

 笑みを浮かべたあの女の言葉が、耳にかかる。

 「一つ言っておくが。俺は、かなり強いぞ?」

 誰にともなく答え、大地を蹴った。







 ひととして産まれても、ひとの子には無い<力>があった。

 ならば自分は、ひとでは無いのだと。ひとの中に居場所を求めても無理なのだと。

 …ひとに、焦がれることは無いのだと。

 其れは、自明だ。

 だからこれほどまでに、昔を懐かしく想う時があるのだろう。

 同じ風に吹かれ、等しく陽を受け、翳りを共有した者たちのことを鮮やかに呼び覚ましてしまうのだろう。

 焦がれてしまった者への想いを、引き摺るのだろう。

 …其の者に何一つ、真実を言えなかったことを悔いてしまうのだろう。

 其れは、哀しいほどの摂理だ。

 ……宿星という名で呼ばれる、魂に刻み込まれた摂理。



 相反すること覆すこと、其れら赦されぬ世界の中で生まれた想いはひそやかに隠され。

 ただ、たゆたうのみ。


いと幽けし聖園のなかで

 


+++終。 

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カヨテツでございます。(迦代さんと龍蔵院鉄洲。の意)


迦代さんと龍蔵院は、私の中でこういう関係なんですヨ。

弦麻という存在を挟んで、相手を意識しているというか何と言うか。

決して自分が立てない位置に居る相手が、嫌いで嫌いで仕方が無い龍蔵院…。

まあ、龍蔵院はこの当時は若造ですから、よけい迦代さんにいなされてしまって。

だから嫌いだった。なのだけれども、時を置いてみれば、正反対の想いもそこには

あったのかもしれないと気付いてみたりする。仄かに好きだったのかもしれないの

だなあと。妙に意識して事あるごとに張り合ったのも、若さゆえの意地ってだけで。

…とはまあ、夢見がちな書き手の言ですけれどね?(微笑)


嗚呼、しかし。その、ええと。17年前組で書こうとすると、どうしてもドシリアスモー

ドになってしまうのは、これはもうしょうがないことなのです、私の中では。……剣

風帖で垣間見た彼らの印象が強すぎるのでしょうね。龍脈の
<力>を護るための守

り人として戦った彼らの、しあわせな姿。其れを思い浮かべるには、まだまだ時間

が必要なのだと思います。…や、下手をすると一生かかるやもしれません………。




◆◇◆

このSSは、姫鏡(桔梗)サマへ捧げさせていただきます。

…遥か以前に『カヨテツ書いたらあげるよ!』とか何とか言ってしまったような記憶

が、おぼろげながらもあるので……。無理やりに押し付けます。貰ってくださいな。

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