文字書きさんに100のお題[062.オレンジ色の猫]

+++「オレンジ色の猫」




 鉛の細芯が罫線の間をすべり、浮かぶ文字。時折消しゴムが其れを舐めとり、吐いた屑が撫で払われる。

 そうして合間に紙を捲る指は白くたおやかな女の其れ。

 電力の灯りを縫って机上に広げるノートに広くのびていた夕陽がうっすらと退きはじめたのに手を止め、篭もってから数時間経ったことを知るのは、美里葵。

 後輩に手伝いを請われたのをきっかけに、己の勉学もしようと借り切った静かな放課後の生徒会室で忙しくペンを走らせるに漸く飽きたか、カーテンを引こうと席を立ち窓辺へ。

 昏く染まり始めたグラウンドは硝子越しに眩しかった。

 けれど、掴みかけられた布は手繰られることなく元のまま。

 彷徨う眼差しは吸い込まれるように遠く去りゆく陽を静かに追い。

 ゆるりと想いを馳せる仕草で微かに首を傾げると黒髪が音も無く背に揺れる。

 …一人で見る夕陽は、なんとも不思議なもの。

 胸の奥の想い出を簡単に呼び覚ましてしまうから。

 眇めた視界にある日常を、難なく昔日へとすりかえてしまうから。

 ― あの日。

 自分以外誰も居ない部屋はひどく静かで。

 たぶんこの、仄かに胸がさみしくなるような刻に赦され想い起こしたことなのだろう。

 ― そうね、あれは思えば入学して数ヶ月経ったぐらいの頃だったかしら。

 あの日も、この生徒会室だったような気がする。…いや、確かにそうだったと密かに、けれどしっかりと頷く心中。

 仰いだ夕陽は、…はて、いつの日のものだったろう。



 職員室に呼び出され、何かと思えば生徒会役員に立候補してみないかと。一年生でそれはと断ったが、結局書記として入ってしまったのだった。(その後、美里は生徒会長になり3年で引退するまでずっと役員に名を連ねる事となる)

 或る日のこと。刷り上げを言い付かっていたたくさんの書類を抱え生徒会室へ行けば、いつもは先輩が一人二人居るのにその姿が無く。普段のせわしない人の動きのかわりに聞こえ来るのはのびやかな寝息。

 おかしいなと見渡せば、応接室お下がりの革張りソファーに、人が寝ていた。

 けれどその人物は生徒会役員の誰でもなく。

 明るい髪の色に、なんとも気持ち良さそうな寝顔。だらしないと言っても差し支えないような寝方。いつも周りに人が絶えることの無い普段の気さくさが見え隠れするようで、美里はすこし、微笑う。彼らしいと。

 一般の生徒が好んで立ち入らない(寧ろ入れない)生徒会室で堂々と寝ていたのは、同学年の中、目立つので顔も名前も見知った男子生徒。

 「あの、蓬莱寺君」

 「京一」

 「…」

 下校時刻が近いから起きた方が良いわよという科白は口から出されることなく喉の奥へ戻り。ただただ、自分の問いかけに間髪入れず目を開じたままぼそりと喋るのに驚くだけ。

 昔から美里は異性と積極的に話すのは不得手なほうで、自分から話し掛けることはそれほど多くなく。教師から伝言を頼まれでもしない限りは、蓬莱寺京一と話すことなど無かったかもしれない。あまりにもイレギュラーなこの状況は、彼女の対処範囲を軽く越えていたのだった。

 「…ああ、俺の苗字って御大層だろ?だからさ、京一でいいって。堅苦しく呼ばれんのは先公だけで充分だ」

 「あの、でも、蓬莱寺君」

 「京一でいいって言ってんだろ?次に苗字で読んだら二度と返事しねぇぞ」

 ― …京一、君。

 京一のむすっとした声音に困って、考えあぐねてのち消え入りそうな声でもごもごと囁いたら、漸く相手は瞼をあげて、髪と同じ明るい色をした瞳で美里を見。

 「おう」

 軽く手を上げて、教室で良く皆に見せていた屈託の無い笑顔で、声で、返事をした。

 …名を呼んだ美里に。

 そしてむっくりと起き上がって、かしかしと髪を無造作に掻きあげ大欠伸をひとつ。

 「俺さ、部活サボって寝てたんだよなー。やっぱりこれってバレるとまずいよなー?」

 「……たぶん」

 暢気な調子であっけらかんと尋ねる京一に、美里は暫し迷って縦に頷いた。

 「だな。…おっ!そうだ、お前の手伝いしてたってことで、一緒にここ、出てくれよ。知ってる奴らに会ってもそれなら言い訳しやすいしな!」

 「え、わ、私が?」

 「俺を助けると思ってさ、頼むっ。……っと、これ美里の鞄か?」

 「そうだけど、……あ!」

 「わり、違ったか?」

 「そうじゃなくて!もうっ、わかったから少し待ってて。…誰も居なくなるのだからちゃんと戸締りを確認しないと」

 見る限り他には置き去りにされている鞄が無いのだから間違えるも何もあったものじゃないだろうというのはこの際言わずに黙っておいた。

 と、いうよりもだ。書類の束の脇に置いてあった鞄を取り上げ、さっさと教室を後にした京一を慌てて呼び止めるのが重要であったし。

 窓やら戸棚の施錠をきっちりと確認してから出た美里に、戸口の直ぐ脇で待っていた京一が話し掛ける。

 「そういや、鍵は校舎外へ持ち出してはいけない、その場合は職員室の所定の場所へ置いておくこと、だっけか。あーめんどくせー」

 …どこか空々しいのが気にはかかったのだけれど。

 そうかしら、決まりだもの。そう呟いて出入り口の施錠をした美里と目が合ったなら、にっと笑う京一。

 「じゃー、職員室寄らねェとな」

 「どうして?」

 「俺だけ外に出るのは不自然だろ」

 勝手なひとだと思いはしたのに。

 付き合うわ、と軽くため息ついてしょうことなしに、何故か頷いてしまった美里なのだった。


 二人並んで響く靴音はやけに木霊して廊下の奥へまばらに吸い込まれ、グラウンドに起こる様々な掛け声はどこか遠く。

 踊り場、引き戸の傍ら、窓の手すり。聞こえ来るそこかしこで交わされる今日の別れの挨拶が、なにやら不思議に心地良い。

 「あ。さっきはわりーな、勝手に入り込んでて。美里はこれからシゴトだったか?」

 「え、ええ。印刷を頼まれていたプリントが出来たから、先輩に渡そうと…思っていたのだけれど…」

 「居なかったよなあ。それ、今日中に必要だったのか?」

 「いいえ、そうではないけど…どうしようかしら。…?そう、そうよ。私、このまま帰ってはいけないのだわ」

 ふと気がつけば、校舎外どころか敷地内からすら出るルートを辿っているではないか。

 心揺らいで見遣るなら、ひらひらと気だるそうに泳ぐ掌。

 「あー、帰っちまえ帰っちまえ、んなこと気にすんな」

 「…え?」

 「まずこの時間になっても居ねェんだから、残ってたってしょうがねェだろ。明日にしろ、明日に。なっ」

 「でも」

 重くなる足取り。

 「校門がもう見えてる。此処まで来て戻るってな面倒、するなよ」

 「…でも」

 さがりゆき、俯く顔。

 「お前さ、たまには早く帰れよ。運動部の奴らが全員帰っちまってもまだ灯り点けてんのはおかしいっての」

 はた、と足を止めた美里を置き去りに数歩進んだ京一が振り返り。そう、言った。

 「一日くらい、誰も文句居言いやしねェって。な?…安心しろ、大丈夫さ」

 すこし高い位置から落とされる声の、…なんともやさしい響き。

 言われてきっと、彼女は嬉しかったのだろうと思う。…そう、とても嬉しかったのだろう。けれど。

 素直に認めるわけにはいかない生真面目さでなおも言い募ろうと美里が顔を上げた、その時。

 ビルの合間をゆるく落ち込みながら沈む陽の残滓がひとすじ強く、赤茶けた明るい髪に絡まってあざやかな夕陽の色に染め上げる。

 眩しさに顔を顰めて揺らした髪は斜陽を弾いてきらきらと光を零し。

 …其れはあたかも魔法のように一瞬の出来事。瞬きするには勿体無いほどの一幕に、目を見張る。

 ― ああ、このひとは猫なのだわ。

 其れは、すとん、と落ち込むような心地良い納得だったと思う。喩えどれほど周りが訝しがろうと、少なくとも美里自身はもうそれで良かった。

 彼は、オレンジ色の猫なのだと。

 気ままで逞しくて、人を振り回すけれど憎めない、そんな生き生きとした野良の猫そのもの。

 誰にも縛られたくなくて自由に歩き回って。

 好きなところで眠って。

 しなやかな体躯で奔放な生き様を楽しんでいる。

 なのにそのくせ、ひどく人のこころに聡い、やさしい猫なのだ。

 あざやかな陽の色を気まぐれに映しこんだ、其れはオレンジ色の体毛の猫。

 くれたのは、なんとあたたかく有無を言わせない心配りなのだろう。

 ― …ありがとう。

 口に出すのは猫の気遣いを無下にするかと思い。ただただ瞳を和ませて、やんわりと応えた。

 「そうね、たまには…良いわよね。帰りましょう、このまま」

 零された言葉を掬い上げるような笑顔は向けられるとすこしだけくすぐったく。

 きっと其れは黄昏に溶けた猫のひげがやさしく触れたのだろう。





 黄昏の教室で思い出したのは、暮れなずむ時分に出逢った猫のこと。

 オレンジ色の、猫。

 彼は間違いなく、この地に永く留まりはしないたちであろうというのは美里の想像に難くない。何故ならそう、あの明るい色をした瞳は、時折此処ではない何処かとおくを見据えてゆっくりと瞬きをするのを知っているから。

 …もしかすると遥か海のむこうへもゆくかもしれない。そうも思わせる仕草だ。

 ああでも猫は好いたなじみの家につくと言うから。

 たとえ何処へゆこうとも、いつかきっと、この喧騒さざめく街に帰ってきてくれるだろうと思う。

 この街は、彼のなじんだ家そのものなのだから。








 それから数ヶ月のち。じきに海のむこう黄土の大地へゆくのだと聞いたけれど。

 美里は大して驚かなかった者の部類に入ったのだった。

 


+++終。 

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剣聖・菩薩。私の中で確固たる地位を誇るCPであったりするのです、これが!!
ああでも私の理想とは今ひとつ違うような感じに仕上がってしまいましたのが残
念でなりません。もっとこう、美里嬢はオットコマエでないと!(笑)まあ、たぶんこ
の出会いが美里嬢をどんどんカッコ良くしてくださったに違いないのだと思い込む
ことにいたしましょう。後の美里嬢(高校3年)は壬生なぞ一刀両断できるほど凛
々しく格好良い女性になってますからね。…なんて。何はともあれ、書いていて楽
しかったのは確か。こういう美里嬢は何やらとても可愛くて、応援したくなります。
いい恋をしてください、って。…う、させてあげるには私の腕が足りませんかなー。

…というか、この組み合わせで初めて書いたのがいきなりEDみたいな回想話で
次はどうしたら良いのかさっぱりです。………そもそもあるのか?次が。<ツッコミ

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