+++[ linden ] 中庭のベンチに、見覚えのある、されど此処で見かけるとも思わなかった体躯を見かけて皆守はちいさく目を瞠った。思わず歩み寄ってしまう。 なだらかに弧を描く背に、長い手足は遠目にも誰であるか解った。 ベンチの周りは整えられた草の絨毯が広がり、踏めば一歩ごとにさくりと足元の芝生が囁きあった。 「…あ、皆守君」 その音でか、こちらから声をかけるより先に向こうが顔を上げた。細かく書き込まれた楽譜を繰る指が止まる。 「おう。珍しいな取手、お前が中庭か?」 「そんな似合わないかな、陽射し」 取手は皆守を見上げ、やわらかく苦笑する。 「いやそんなつもりで言ったんじゃないんだがな。ほら、俺とお前って大概保健室で顔つき合わせてたろ」 「そうだね。外じゃ遭わなかった」 皆守は首をやや反らせ、風に髪を遊ばせた。― いい風だ。 「今日はあたたかいからな。風もそう冷たくない。絶好の昼寝日和だ」 「皆守君、また寝てたんだね。屋上かい?」 「天気のいい日に外で昼寝は俺の基本なんだよ」 「そろそろ陽の翳りも早くなってきたから、5限目くらいまでにしときなよ」 「わぁってるよ。昼休み以降は保健室のベッドだ。ま、陽が高くなる前も世話になってるぜ」 「ふふ。端麗先生も大変だな」 「空いてるベッドを遊ばせとくのも勿体無い。有効活用してやらなきゃかわいそうだろ」 「そういうの、屁理屈っていうんだよ」 「ふん、理屈莫迦よりずっと可愛げがあるだろ?」 「かもね」 取手は微笑い、大変だな先生、ともう一度いった。 流れる風に、ぱら、と楽譜の端が翻る。 五線譜の上に、手書きの音符がなめらかに踊っている。取手の自作の曲なのだろう、書き直した跡が所々に幾つも見て取れた。鉛筆でなく、艶消しの黒インクでつぶさに書き込まれている。皆守は音楽を聴くのが好きなほうだが、其れは流行りの曲にほぼ限定されるし、クラシックなぞを語るのは不得手を通り越して無理だ。取手のこだわるような、音楽の本質だの理だのはそもそも良く解らない。それでも、作曲が出来るというのは凄い事だと素直に思っている。楽譜をろくに読めない自分には到底真似できない。 「…楽譜を眺めていたのか」 「あ、うん。ピアノの前で作ってたんだけど、陽射しがあったかくってね、つい外に。清書の前に気分を落ち着けたくって」 「清書の段階でペンを入れるんじゃないのか」 「僕の場合はね、」 言い置いて。 「曲のモチーフだのメロディーラインだの、浮かんだものを書き留めている段階では鉛筆。それはメモだから。けど、きちんと曲に仕上げようって思うと確りペンで刻んでいかないと、鉛筆だと知らないうちに擦れてぼやけちゃったりするんだ。せっかく良いフレーズが浮かんでも、後でわからなくなる。譜面台に置いて読みながら弾くのも鉛筆だと薄くって見辛いしね。あ、勿論、ピアノを弾きながら曲作りをしている最中は鉛筆だよ。ピアノの上にインク壷は置けないから」 「そりゃまあ…そうだろうな」 何とも返しがたく言葉を濁し、苦い顔をする皆守に取手は微笑んだ。 「いい羽を貰ったから。その羽でつくったペン、書き味もなんだけど、すごく、インクののりも良くて。書き込むのが楽しいんだ」 とても嬉しそうに語る。弾んだ声だった。 「取手、お前、羽でペンが作れるのか」 「いい鳥の羽があれば…。使えるように多少の手間をかけなければいけないけど、刃物の扱いにさえ気をつければ加工するのはさほど難しくない。先端に切れ目を入れてね、ペン先に仕立ててインクを含ませるんだ。日本では馴染みがないだろうけど、欧米の人は昔、手紙も書類も文字は羽や植物の茎でつくったペンで書いてたんだよ。そして楽譜も」 「羽でも結構かけるもんなんだな」 「うん。しっかりしたものを選ぶのが大事なんだ」 人が横から譜面を見ても隠そうとしない。しかしそれは、皆守が楽譜を理解できるか否かでは無いのだ。読める者であったとて、きっと取手は譜面を隠しはしないだろう。 それは、自分のつくったものへの自負を、取手は持ち得たということであって。 ― 劉 端麗が見れば、良い兆候だと言って微笑うんだろう。 「これね、緋勇君のくれた鳥の羽でつくったペンで書いたんだ」 「緋勇が?文字がかけるくらいの羽となると、鴉のなんかじゃモノが弱い気がするが」 稀に路上で見かける鳥の羽を思い浮かべる。 「彼、立派な猛禽類の羽をくれたよ」 「…よくもまあ、またそんな手に入れづらいもんを見つけてくる奴だな」 「それが彼だよ。僕の望むものをすんなりと見つけて差し出してくれる。微笑ってね」 「あれは、んな大した評価をくれてやるような男じゃないぜ。調子が良いだけの野郎だ」 また風が楽譜の端で遊ぶ。取手はそれをやんわりと手で押さえ、譜面に踊る音符を指でなぞる。 「ねえ皆守君」 中庭をふきぬける心地良い風が、取手の長めに伸びた髪を揺らす。 「…んっ、なんだよ取手」 軽く首のこりをほぐしていた皆守だ。 「善悪の彼岸ってあると思う?」 「……唐突だな。んなもん―」 善悪の彼岸が何処にあるのかなど、皆守は知らない。天に在るのか、それすらも。 在ったとて、其れが絶対的なものでなどありえようはずもない。ひとは一様ではない。善悪の判断は個々の価値観で様々に色を変える。 「わかんねェよ。あったって、個人個人で全然違ってくるだろ善悪なんてのは」 「はは、うん、僕もわかっちゃいないんだけど、でも…」 「でも何だよ」 「あると思ったんだ、僕は。善悪の彼岸っていうのは、善と悪とを隔てる岸ではなくて、善も、そして悪をも超越した向こう側のことだと考えたらね、其れはやっぱり、あるんだろうって」 己の裡に取り戻した、ひかり。そのひかりを瞳に宿して取手は皆守を視た。 「緋勇君は、その岸辺に立っているような気がしたんだ」 「…あいつだって、自分の価値観で行動してるだけだ」 「そうだよ。けど彼は善だの悪だので行動してないんだ。…ひとがヒトとして健やかであるかどうかだけを彼は想ってる。だから僕ら《墓守》になった者を放っておけなかったんじゃないかって。黒き《力》は、僕の意識を歪め、脆くした。彼は僕のその姿を疎み、助けようとしてくれた、たすけてくれた…。」 取手はやさしく目を伏せ、顎を上げた。降り注ぐ陽光を享受するかのように。 「彼が手を差し伸べてくれる前、僕は目を閉じるのがこわかった。自分で眼前に闇を下ろすようで、どうしようもなくこわかったんだ…」 瞼がゆっくりとあがる。 「頭では理解できずにいたけど、心は感じてたんだね。目を閉じたとき、もうひとりの自分が起き上がるんだって」 砂に巣食われていた頃、取手は両の目を覆い、視界を闇に閉ざしていた。その姿かの人格でしでかしたことを記憶はしておらずとも、意識は覚えており、だから当時、そうして目を閉ざすことに恐怖を感じたのだろう。 「…今はもう、こわくないようだな」 「うん。おかげさまで。目を閉じると僕は、この耳だけで世界を感じられる。音に包まれる。そうしてピアノを弾くのは心地いいよ」 「そうか。…あんな男でも、少なくともお前にとっては救世主のようなものなんだな」 「…、皆守君は時々、緋勇君を遠くに置こうとするね。どうしてだい?彼は、君を近くに呼んでくれているのに」 「俺はすぐ横で保護者ヅラされたくないんだよ」 「かまわれるのが鬱陶しい?」 「ああ。ったく、全身全霊で主張してるってのに、あいつ」 「きっと彼にはそれが解ってる。…でも彼が、それでも君を構おうとするのは、呼べば君が返事をするからだよ」 「…!」 「本当に構われたくないなら、応えなきゃいいんだ。でも、皆守君。― 君はいつだって彼に応えてる」 「それは…だな…ッ」 「― それは?なに?」 「あいつが待ってるからだよ…!微笑って、どうした?って訊いてくるからだ!!」 「待ってもらえてる。それはすごく、しあわせなことだよ。見捨ててないから、待ってくれてるんだ。君の話すことを、聴いてやろうとしてくれてる。君は自分から言わなかったろう?どんな些細なことも、僕には。保健室で、挨拶や社交辞令程度の世間話はしても、君から僕に個人的な話を、お前はなにが好きだのとかそういう話を振ってきたことは一度だってなかった。…彼が、緋勇君が来るまではね」 「…ッ…」 皆守は唇を噛む。こんなにも取手に捲し立てられているというのに、感情は喉で詰まり、言葉として出てこなかった。 「話を、聴いてくれるひとがいるんだってことを君は知った。だから、他人と関わりを持つようになったんだ」 「ねえ、皆守君。たしかに彼は、とんでもない《力》を持っているのかもしれないよ、でも。やさしいよ、…すごく。彼は、壊そうとしてこの学校に、あの《墓》に入り込んだんじゃない。わからないふりをするのは止しなよ。彼の《力》は、ひとを傷つけない。なにを君はそんなに警戒するんだ」 一陣の風が芝生を粟立てて吹きぬけた。 取手の手もとで、楽譜が色めきたったかのように翻る。 ― 俺が、警戒するのは変化だ。 皆守の心は悲鳴をあげた。 「俺は、あいつのもたらす変化が嫌なんだ」 あの男の言動は漣のように拡がり、皆守の暮らす世界は変わってゆく。変容する世界に、己がなじんでゆくことへの畏れ。世界にあわせ、変化する自分。 気付いてしまった。 ああそれをこそ皆守は、おそれていたのに。 この地に変容をもたらす者を、皆守は、けして赦してはいけない立場にたっていることを強く、つよく認識せねばならないから。 あれを排除せよ、と脳裡に囁く低い聲を聞く。その聲に己は従う。 もうこんなことはやめなさい。被るやわらかな女の声。其方の声を拒んで。 「僕は。彼にもたらされた変化を経て、微笑えるようになった。」 「……れよ」 「この間ね、緋勇君、すごく嬉しそうに言ってたんだよ。君が微笑った、って」 「黙れよッ!」 大きく、おおきく肩が揺れているのはわかった。肩で息をせねばならないほどの、大きな声で叫んだことも、わかった。この肺が、耳が、痛いほどに皆守のなかで疼くから。 強く握った拳、喰い込む爪に塞き止められた血管がもがく。 「そういう大きな声も、君、出せるんじゃないか」 皆守は怒鳴ったというのに、取手はどこまでも静かに言葉を紡いだ。 「…変わったな、お前」 「ああ。変わったと僕自身おもう。変われてよかったとも思う。僕は君のおそれるものをおそれない。そうしたらすごく、生きることが楽になったんだ。たのしくなったんだ。あんなにも僕は、姉さんの居ない世界で生きることを拒んでいたのに」 「俺とお前じゃ負ってるものは違う」 「知ってる。僕は僕で、君は君なんだからね。僕は君じゃない。君は僕じゃない。」 「だったら…!」 「そのひとが何を負ってて、それがどんなに重たいものなのかは他人が判断しちゃいけないんだよ。誰だって、ひとの重みより自分の重みをきつく感じるんだから。僕にとっての姉さんは、君の負うべきものじゃない、重みが違うのは当たり前だ。そうやって、違うってことを口にして、自分の負うものをより重たく感じたいのかい」 取手の目が、心なしかきつく顰められたような、そんな錯覚を皆守に覚えさせる。 「僕は君がそうしたいならいいよ。かまわない。でも、彼は君をけして捨てない。だから僕も、君から離れない。どんなに大声で罵倒されたって、いい。僕はそんな君に苛立つって感情を取り戻したから」 皆守の心は冷えることを知らないように、どんどん熱を持ってゆく。感情が波立つのを止められない。ふつふつと泡立つのは怒りだ。 以前は、こうはならなかった。 「怒るのは、とてもエネルギーの要ることなんだ。活きてないと、無理なことなんだよ」 「俺はいきてなくていい」 「世界は活きているのに?たえず動いている世界で、僕らはいきているんだ。無視して、病もうとするのは良くないよ。緋勇君が、どうしてこの學園を動かそうとするのか理解して。― 病んだものを、世界は容赦無く切捨てるからだよ。見限ろうと、するからだよ。僕や、君を、彼は世界に繋いでくれようとしてる」 取手のまっすぐな視線が、彷徨おうとする皆守の眼を捉える。 はなさない。 ― こいつはいつからこんな眼をするようになったんだ。 「理解して。」 緋勇に救われたものの眼。この眼を持つものがこの先幾人と増えていくのか。 皆守の、周りに。 「したくない」 《墓守》の真なる末裔、あの男だけを孤独に残し、周りをすべて掬い取っていくのか緋勇は。 だとしたら皆守は、どうあっても取手の言うように楽になるわけにはいかなかった。 …どうしても。 緋勇が、一族の者ですらも救済の対象とみているであろうとしても。 あの男はけして《墓》を離れない。 そして皆守は、あの男の聲を聞くことを自ら選んだのだ。 えらんで、きたのだ。 ずっと。そして、これからも。 与する相手を、たがえてはならない。脳裡の聲が囁きかける。 「…もう一度だけ、教えるよ。君が微笑ったことを、とても嬉しそうにいったんだよ彼」 ひどくさみしそうに、取手は瞬いた。 「皆守君、きみ、いますごく辛い目をしてる。…君の心が瞳に滲んでる。僕は、君の心が奏でる旋律を感じはできる。でも…すべて読み解けはしない…。けど、彼は。緋勇君は解ってくれるよ。安心して。僕にはそれしか言えないけれど、僕の伝えたいことはぜんぶ、君自身が彼の傍で感じられることばかりだよ」 気付いているんだろう? 取手の静かな問いかけに、皆守は頬を強張らせる。 「君がこれからどうするか、僕は関与しない。もし君が彼の手を土壇場で振り払っても批難しない。でもそれで君が後悔するんなら、僕はなんとしてでも君を彼のもとに連れていく。― だから、」 取手は微笑う。やさしく、笑んだ。 「だから、せめて今だけは君にちゃんと言いたかった。彼は善悪の彼岸に立つ。君がどんな判断を下しても、なお彼は皆守君を恨むことは無いよ。ただ、叱ってくれるだけだ。…ちゃんとね」 皆守の足が動く。 草を踏みしだき、躰は向きを変える。 取手に背を。 足は前へ。 遠ざけたかった。すべての言葉を。取手のみせる、緋勇という男のもたらすものを。 とおざかりたかった。それらから。 追う声はない。 引き止める腕もない。 …ただ眼差しだけが背に絡んだ。 |
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パワーバランス 取手>皆守。 阿皆だったりピアノ→アロマだったり、でもひーみな。 様々な かまち、いいこだなー。と思いますほんとに。 儚げなんだけどやさしくて、ひとを思いやれる強い子。だいすきだ! 近くに居るがゆえに、皆守の裡にも黒い《力》のあることを自ずと察したのじゃないかと思ってます。だからこんなにも心配してるんだ。 逆に皆守はっていうと。意地っ張りで、強いふりをして、でも本当はよわくて儚い子なのですよ…自分のことでいっぱいいっぱい。だから陛下は皆守を放っておけないのですね。かまちもね、皆守を放っておきたくない。(脆かったころの自分を、重ねてしまうからなんだろうか。) 皆守は、そりゃもうすさまじく陛下に毛を逆立ててますが。 んー…。あの子は、案じられるということだとか愛しているからこそ叱ってくれるということだとか、近しい表現で言うと「親の愛」をじゅうぶん吸収できずに育ってきたんだと思うわけですよ…。だからああも陛下に反発するのじゃないかしら。どう対応していいのかわからなくて。ね。 (夢を見るのは止せよ☆) …ま、まあ、ともあれこのお話で、かまちが陛下と皆守をどう捉えているのか、そういうことを察していただけたのではないでしょうか。 かまちは誰よりも早く陛下に掬われた子なので、だから、陛下を起点に皆守とは対極の位置で天香學園の変化をほぼ初めから最後まで肌で感じてゆく立場にいるのですよね。 そう考えると深いなぁ…この3人の立ち位置って。 |
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